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消えるゴミ/2022年02月14日(月)

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社会人1年目、意識高い系だったので日経新聞を契約して読んでいた。読めるのはたいてい朝の出社時間。ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に揺られながらページを捲るのは至難の業。乗車率200%を誇る埼京線であればなおさら(180%を超えると気がおかしくなります)。ピカピカのキレイなiPadで、涼しい顔をして電子版を読むおじさんを羨ましく、また恨めしく横目で見ながら「あんなので読んでも頭に入らねーだろ」と心の中で毒づいた。自身の缶詰状態に対する不快感の方が勝って、こちらこそほとんど頭に入らないし、まあ強がっていたわけである。1ヶ月足らずで紙で読むことは諦めて(周囲の目も気になった。我ながら)スマホの小さいビューアーでページをめくっていた。程なくしてJ:COMから契約の特典でもらったタブレットを一時期持ち歩くようになった。ただ電子版の新聞は読んでも、小説などの書籍ものは読まなかった。これは一部では僕自身へのブーメランでもあるが「どうせ頭に入らないだろ」という、要するにただの食わず嫌いである。やっぱり慣れなかった。

ある人が自身の著書で電子書籍と本について触れており、興味深く、なおかつ印象にも残っているので引用しながらふれてみる。

紙媒体のよさは文章の可読性であったり、実際のモノとしての手触りを感じられるとか挙げられる。確かに触りごごちのよい表紙や、捲る感覚が好みの紙の材質は、内容はあまり覚えてなくても心に残っているものだ。

そんなことをさておき著者は、紙媒体のよさはページ数を「フィジカルに感じられること」だと述べている。話が進むにしたがい、ページが減っていくのが「寂しい」「惜しい」と感じたり、あるいはまだこれだけあることに「きついな」と感じたり、残りのページ数の「厚さ」をみながら、どのように話が進むのかを想像するのが、感受性を養ううえでも肝要であると。その著者は教育者だからこのような視点になるのだろう。

その微妙な機微は紙でないとわからなくて、指でページをくりながら、(自分によってよいものであれば)「あと何ページあるのか」を噛みしめるときに起こる感情は電子書籍では生まれにくいため、紙媒体は無くならないだろうとまで言及している。もはやそれのみが紙媒体の価値であろうと言うかのように。もっとも、そのような抽象的な「感受性」をやしなうために人は本を読まないので、それは読書そのものの副次的な効果であると、僕自身はかんがえる。

当たり前なことを言うが紙の本は物理的にかさばるので、複数冊持ち歩こうとすると重いしスペースをとる。これはやはり紙の本を好きな人にとっては永遠の課題である。ずっと、解消し得ないと思う。

上のことが理由になるのかもしれない。やはりタブレットで本は読めないままだけれど(まず読もうとしていない)、雑誌を読むのにこの頃はタブレットを重宝している。どのようなプラットフォームを選ぶかにもよるけれど、興味の幅を現実的に考えて、いつどこにいても(ネット通信さえ問題なければ)一つのタブレットで100冊近くはポータブルできる。また暗いところでも読めるのも私にとってはけっこう利点に感じている。

あと何より。後始末の気さくさである。月刊誌なんかはなんとなく家に置いておいてもフォルム的にもわるくないけれど、週刊誌はなんだか早く捨ててしまいたい。ゴミ箱に突っ込んでそのまま捨てることもたまにあるが、やはり気が引ける。自分だって読んでいるくせに、あのコンビニなんかに置いてあるまがまがしい(ごめんなさい)表紙のそれを、一定期間以上家に置いておくというのがイヤなのだ。

その点電子書籍は読める期間が過ぎれば自然となくなる。見ないようにできる。ゴミが消える。これからもたまに紙の雑誌を買うこともあるであろうけど、ほとんどは電子書籍に置き換わっていくんじゃないかという気がしないでもない。

雑誌はきほん切り抜きはしない。電子版でブックマークができても、したとしても読み返さない。こればかりは「あれ、なんの雑誌だっけ」と記憶と勝負しながら探しあてるのがよい。もっとも、そこにまったく異なることが書いていて「記憶は怖いな」と思うのも一興である。

ページの減りを肌身で感じられることが紙媒体のよさと言った。たしかに強く同意できるが、電子書籍も読み慣れた雑誌に限っていえば、コンテンツの流れに沿ってあらかたの総量も感覚的にわかってくる。文明の進化に対する「慣れ」もまた怖く感じるこの頃である。