何を書くか、何を書かないか。

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2021年11月23日(火)祖父の思い出

やっと書こうと思う。

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1年前、祖父が亡くなった。私にとっての祖父祖母で一番初めに鬼籍に入った。91歳だったか。よく生きたよ。死に目はおろか、まだ一度も墓参りに行っていない。というか、行きたくない。でも次の11日、私は一周忌のために山形へ向かう。お坊さんが忙しくてその日になったらしいが、奇しくもその日は母親の59歳の誕生日だ。

報せは母からのLINE電話だった。1年前の1120日。平日の嫌というほど忙しい16時頃。平日の日中に電話がくるなんておかしい、なんかあったのだと直ぐに察知した。会議が終わって折り返すと、「じいちゃん死んじゃったよ」と母はいった。これからの段取りを簡潔に聞き、「そっちも気をつけて」と伝えた。実家から祖父の家まで車で片道でも2時間弱かかるのだ。17時半前に「体調が悪くて早く帰ります」といいオフィスを出た。コロナじゃないよね?気をつけてね、と背中に優しく声をかけられた。麹町のオフィスを出て四ツ谷駅方面に向かったものの、どうしたらよいかわからなくて文字通り途方にくれた。新宿まで4キロくらいの道を歩いた。全くといってよいほど涙は出なかった。そして、未だに出ていない。亡くなった=この世に生きていない、ことを認められないからなのだと思う。

祖父は大工をしていた。私が生まれる頃にはすでにやめていて、畑作業をしている姿しか記憶にない。祖母も母も時々祖父のことを「おだいくさま」と呼んでいたという。棟梁だったかはわからないが、その呼び名やニュアンスからも一家の大黒柱というだけではなく、ある種の名誉がある特殊な存在であったのだろうと幼心に感じた。昔気質で堅物、分からず屋という感じではないが、確かに口数は少なかった。

その祖父の家の土地は全面をとれば野球ができるくらい広かった。夏は虫を捕まえたり、野菜を愛でたりした。(もちろん大工仲間がいただろうけれど)家も小屋も祖父が自らの手で建てた。昔はここに母屋とかはなれがあって・・と庭を歩きながらよく聞かされた。「お前はこの用水路から流れてきて俺が拾ったんだ」とひょうひょうと語ったのはいまでも可笑しい。車のカセットはぜったい演歌で、美空ひばりばかりが流れていた。寝るときは必ずラジオをつけながらで「音がないと寝られない」とのこと。サティ(現イオン)の1階の休憩スペースでソフトクリームをいっしょに頬張った。祖父は必ずバニラ一択で僕はチョコと混ざったマーブルだった。「ラーメン食べにいっか?」ときかれて「かあさんとこのあとマックに行くからいいや」と言った時に見せた寂しい顔をいまでもよく覚えている。ごめんね。でも、別の日に食べたメンマラーメンは美味しかったよ。ありがとう。ある時いきなり「花みにいっか」と言われて車でダリア園に行った。その帰り、日がどんどんと暮れゆく山の中で迷子になった。あれは文字通り迷子であって、祖父の顔もいつになく焦っていた。ボロボロの軽トラにカーナビなんてものはなく、携帯も持ってなかった。小2か3くらいで「これ結構やばいんじゃないか」と思った。おなじ場所をえんえんと走り回っているような感覚をおぼえて、5時くらいだったと思うがやっと小さな灯りを見つけた。「フォレスト(だった気がする)」というレストランに入り、道を訊いた。きた道をそのまましっかり戻って走ると、祖父のよく知る道に直ぐにでて帰ることができた。フォレストを見つけられなかったらどうなっていたのだろう?

そんなこんなで、語りきれない思い出がたくさんある。これからも忘れることはないでしょう。書きながら思い出し、思わず目が潤んでしまった。しっかり会ってきたいと思います。


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