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「死ぬまでパイナップルしか食べられないとしたら」

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 小学生の頃、シロップ漬けになった果物の缶詰が好きだった。たまに母親が買ってきて、母、妹、私の三人で分けて食べた。ときどきロールケーキだったこともあった。三人で分けた。誕生日やクリスマスにはケーキを分けて食べた。どの場面においても僕はいつもこう思っていた。「一人で全部食べたい」

 

 中でもパイナップルが好きだった。「毎日出して」と母にせがむと「死ぬまでパイナップルしか食べられなくてもいい?」と返ってきた。今思えばその回答は支離滅裂で意味不明なものだが、当時の私は私なりに考えてみた。私は無人島にいた。自分でパイナップルのなる木を見つけ、ゆすり、実を落とし(あるいはもぎ取り)、尖った葉を切り、ゴツゴツした厚い皮を剥がし食べているところを想像した。とても楽しそうだった。

 支離滅裂な母の返しに対し、私がどのような反応をしたかはよく覚えていない。恐らくは「いいだろう!」と返事をしたのではないかと推測する。

 

 

 私が親元を離れ茨城の大学に通うようになり*1、食事は基本的に一人でとるようになった。もちろん友人と共にすることもあったが、大学3年の終わりに付き合っていた彼女と半同棲のような生活をするまでは食事は一人でとる方が圧倒的に多かった。初めは自由で気楽だった。しかし次第につまらなさを覚えるようになった。ときどき何かにつけて誰かを誘って引っ張り出し、皿の乗ったテーブルを囲んだ。それはそれでやはり楽しいことだった。

 

 一人で食事をすることは気楽なことだった、と書いたがそれはやはり「自分で自分の食べたい量を決めることができる」という点にあるだろう。食べ物や飲食店に差し出すお金がある限り、自分の裁量でその量や程度、あるいは時間を決めることができる。

 

 大学1年生の私はロールケーキや缶詰を思い出した。買ってきていざ食した。一口目、二口目、三口目…そのものが半分に差し掛かるとき手を止めた。あれだけ「一人で、ぜんぶ、食す」ことに憧れを抱いていたのに、ある種の憧憬や根源的な欲求のようなものは霧消してしまっていた。正直なことを言うとそれは、私がそれをスーパーのカゴに入れた時点で感づいていたことだったのだが・・*2

 

 私のこの体験は「消費に関する価値観」を決めるヒントであったりカケラになった。ものを買うとき(上記以外にも)過去の自分が体験した「満たされなかった欲求」を思い出す。「あの時は不自由だったから」と思ったり、あるいは自分をなだめているような場面がたくさん思い出される。

 

 衣服、食、本、コト…。社会人になった私にある程度の決まったお金が入ってくるようになり、あらゆるものを自分の裁量で買うことができるようになったのに(そしてそれを実際に対価を払い、消費しているというのに)満たされないのはなぜか? ということを去年の夏頃に綴っていた。私はその文章を掘りかえして流し読み、「私はなぜ満たされないのか」というもやもやから「満たされるとはどういうことなのか」あるいは「私(やあなた)は満たされなければならないのだろうか」という、さらにディープで濃ゆいもやもやに首をつっこむことになった。

 親がこれを読めばきっと悲しむだろう。「そんなに与えられなかったのかな」と思うだろう。しかしそれは間違いだ。僕は十二分にものを与えてもらっていた。もしかするとその当時は「足りない」「満たされない」と思っていたかもしれないだろうが、今こうやって振り返ると、僕は十二分に満たされていたと認めることができる。だから安心してほしい。

 

       ☆ ☆ ☆

 

 

 家から徒歩数分のところにイギリス風(?)のパンを売る店がある。一日きちんとしたものを食べていなかったので、配達が来るまでの時間を使って急ぎ足で行った。名前は「リトル・マーメイド」という。非常にかわいらしい名まえだ。だいたい買うものは「塩パン」と「アップルパイ」と相場が決まっている。アップルパイについては言うまでもないが「塩パン」は文明の発展、文化や流通の進化にことさら感謝しなければならない。

 大抵はそのまま食べてはいけない。大事にかかえて持って帰り、ビニル袋に入れたまま500Wで20秒温める。温まったそれをカミラ・カベロの「ハヴァナ」を聴きながら食した。多幸感に包まれる。食べている間だけは嫌なことを忘れられる*3。死ぬまでずっとこれを食べていたい気分になる。でもそのうち一つや二つはおそらく嘘であり間違いだ。

 今日はそのパン屋のお姉さんと配達してくれたお兄さんの人に会っていない。のっそりと朝起きたとき「餅を食べたい」という欲求が生まれた。キッチンの下から袋にたくさん詰められた切り餅を引っ張り出した。電子レンジで温める前に「餅が皿につかない方法」をオンラインで調べ、実践した。モチモチにさせたいなら餅が浸るくらいに水を加えればいいとのこと。さっそく水の入った小皿に餅を浮かべてあたためた。納豆のパックはフタを開ける時、どうしてか底が破けてしまったのでお湯になった水を捨て、餅の上で混ぜた。

 引越し時、ジェイコムを通じて、BS系のTVを契約したのにもかかわらず、からっきし利用できていなかったので、映画を中心に見漁ろうと思った。手はじめにTBSでドラマを流した。織田裕二が大富豪探偵で、ディーン・フジオカがその執事、土屋太鳳はその二人を追いかけ回す(依存しきる)刑事役というもの。案外おもしろくてつい見入ってしまった。そのあと録画の始まっていた「ビューティフル・マインド」を追いかけた。これがまたよかった。プリンシプル大学に行ってみたいと思った。スーツが着たくなった。恋がしたくなり、愛を得たくなった。この作品については追って書く。

 

 そうこうしていると夕暮れが近づいてきた。空はきれいに澄んでいた。雲はまばらになって流れていた。まともな生産ができなかったいちにちを振り返り、久しぶりに人に会わない生活ができたことをあらためて嬉しく感じた。この頃は他人と居すぎてしまった。

 所詮は一人なのだ、と思う。どれだけ近くに友人がいたって、職場の同僚がいたって、たとえばもしガールフレンドがいたって、所詮はココで生きている限り、私は生身の一人なのだと思った。僕は不思議とそれが寂しいとは思わなかった。ただそれは現実なのだ。変えることができない。そもそも変える必要がない。「ただ置かれている」と思えばいい。

 

 突然、昨日のメンズ用美容室で流れていたマルーン5の「メイクス・ミー・ワンダー」が頭の中でこだました。僕は実際にそれを調べ、耳からからだに流し込んだ。

 

I still dont’t have the reason 

And you don’t have the time

And it really makes me wonder 

If I ever gave a fuck about you

Makes Me Wonder /MAROON 5 

 https://itunes.apple.com/jp/album/makes-me-wonder/275593502?i=275593514 

*1:いつもながらつくば市にある大学のことを「茨城の大学」と説明するのに違和感がある

*2:さすがにケーキを一人で頬張ろうとは思わなかった

*3:大した悩みなど持ち合わせていないのだけど