何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

絶景でなくてもいい

 

ゆみちゃんの話

 

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悪いけど、少しだけ昔話をしたいと思う。ゆみちゃんに絡んだはなしだ。

 

 

私はこの頃、こういうことを書こうとする時、単に回想したものをそのまま記述出来るわけではないと感じるようになった。それは何度も。私の中を介在する種々様々な経験と体験はやはり混じり合い、間違いなくそれは自らの血肉となり、ドロドロと溶け込んだ得体の知れない(自分でさえ)何かから固形異物を取り出すような、そんな作業を思い浮かべる(し、実際そうなる)。引き抜いた時の手や腕にこべりつく何かが、私にとって大切なあるいは特殊なものなんだろう。取り出すものとは別に。それがわからなかった。何が大切で何が大切でないのか。大切なのは私が取り出そうとして取り出された固形異物ではなかったのか。大切かどうかなんて、さして問題ではないのに、何にこだわっているんだろう。大人は大切なものにこだわる。小さい頃からそう思わされてきた。庭に咲くたんぽぽを踏みつけたり、道路の縁石に乗ったって誰も言わなかった。だがそれを見た大人は叱った。なるべく厳しく、然るべき対処を選び、罰を与えた。

 

長く録り溜められたヴィデオ。茶色に変色した分厚い本、漫画、雑誌。ビニールのフィルムに護られる写真。アルバムなんて何の意味があるのか。親はそれを見て喜んだ。一年たっても二年たっても、同じような反応をした。思い出話は私の記憶のないところの話題だった。ゆいいつ、ドラム缶に迷い込んでしまった私を叔父が見つけ出してくれた時の、あの光景だけは覚えている。山奥の森の中。KEY COFFEEの看板やマークはその時から知っている。集合写真の中の私の頬は、大粒の涙を流した直後で赤くなっていた。祖父母は笑っていた。私が被っていた藍色のキャップは、マークの部分が発光する素材で作られていた。あの、お気に入りのキャップはどこに行ったんだろう。ものを捨てられない母親が捨ててしまったんだろうか?

 

何処かの誰かはそれを見ていた。ただそれだけなのに何故、思いもよらない形でそれが共鳴しだすのだろう。吊るされた鉄球は5つ並んでいて、静かに、互いに接している。端にある二つの鉄球の接点はもちろん一つで、それに挟まれる三つは接点が二つある。左右にある。誰も触らなければ決して動かない。そこに力はない。静かにとどまっていた。誰かの手によって端にある一つは持ち上げられた。先程まで接していた鉄球の接点に向かってみじかな弧を描いた。ぶつかった時の衝撃の力は、四つむこうの鉄球に伝わって跳ね上がる。力は見えない。カチンカチンカチンカチン…。ずっとずっと、カチンカチンカチンと動いていればいいのだけれど。けれど少しうるさいな。

 

思うんだけれど、ちっちゃい頃の記憶ってちっちゃい頃とかに見た写真をみた時の記憶だと思うんだよね。だから、熱湯の入ったポットをこぼして大火傷したとか、ドラム缶に閉じ込められて泣いた時とかもちろん覚えてないし、分かんない。でもさーーあ?檜原湖ってもしかして夕方に行った?母さんと父さんが暗い湖をバックにして並んでる景色が、なんだかずーーーっと頭の中にあるんだよね。それもまた写真かな?

父親と祖父母に向かって話した。その時はゴールデンウィークで、私の運転で山形から生まれ故郷の米沢を通り、東鉢山やら峠をこえて檜原湖へ向かった。

祖父はあまり記憶がないような顔で、んだがもしれねな。と言った。父親は夕方だった、寒かったな。と静かに言った。

 

 

ゆみちゃんは、私にとって高校の頃の国語教師だった(主に古典だ)。私がゆみちゃんに関して知りうる情報は、巫女さんをした事があるということと、旦那がいて妄想が好きなんだけれども子供はいないということ、それともう一つ、ある日の帰り道の忘れられない一瞬についてダラダラと話してくれたことだった。

ゆみちゃんは現代文の授業で、写真(主に景色)の中の私たちということをテーマに話し合った。あれはたしか有名な著者が記した文章であって、「評論」の中で扱ったのだと思う。偶然に有名な景色に入り込んだ観光客は絵葉書となって生産され、世の中の人々に渡っていく。絵葉書をもらう私は家の中で、そこにいる私を想像する。なぜ人は観光地に行くのか、みたいな話だった気がする。

私の好きな古市さんは、何故人がいろんなところに観光しにいくのかわからない、グーグルアースで見られるじゃんと言った。陸上競技で全国的な活躍をするような友だちも同じようなことを言った。私はそれを分からんでもない。じっさいそうやって観光的な疑似体験ができるのは、ある程度では事実である。だがそこには、においや温度はもちろんない。たまたま巡り合わせる気候や観光客もいない。不意におとずれるカラスも見えない。私はただそれを見たい。映画館で変なにおいがしたり、水滴が飛び散るなんて私はもってのほかだと思った。そのリアルと、このリアルは違う。一枚のスクリーンを隔てて描かれる映像作品にこそ、魅力があるのではないだろうか。リアルさは画面の中だけでいい。「いいや、そんな話はどうだっていい。」

 

どんな話の流れだったか分からないけれどもゆみちゃんは観光から景色の話に、そして感動したことに話題をシフトしていった。

関係ないけど話をしてもいい?いやだって言ってもするわね。これはテストに関係ないけどみんなに聞いてほしいの。もう授業も終わったことだし。

周りはガヤガヤし始めたけどみんななんだかんだで聞いてた。僕は耳をすませた。

 

こんな話だ。

帰り道バス停に向かって歩いていた時ゆみちゃんの後ろでふたりの生徒が興奮していた。(興奮する、というワードだけでゆみちゃんは興奮していた)どんな騒ぎかと思って振り返って見たけど、特に変わったことは見当たらない。ふたりは携帯を持ってただわちゃわちゃしていただけで、何したの?って聞くほどでもないのかな、と思った。またバス停に向かって歩いた。バス停というか、高校そのものが高台になっていて、見晴らしのいいところだと山の下にある住宅街やら公園が見下ろせる。いつもその眺めをみながら家に帰るの、とゆみちゃんは言った。

ふたりの生徒も同じバス停を利用するみたいだった。着いた頃、さっき程騒いではいないようで何に騒いでいたのか、改めて聞くような雰囲気じゃなかった。悪いことじゃないといいんだけど、と思ったがそんなことするようには見えなかった。

停車場に横付けされたバスに乗り後ろの方に入っていくと、ふたりも揃って入ってきた。ゆみちゃんの持っていた担当の学年ではなかったのか、あいさつすらされなかった。そしていちばん後ろの席に腰を下ろした。さっきよりもふたりの会話がゆみちゃんの耳に入ってきた。

 

 

さっきのアレやばかったね!ね!マジでやばかった。

(何がやばかったんだろう)

もうあんなのみれないかも。死んでもいいかもね。それは大げさ、まだ16だよ?もう16かな?

(私の前で失礼な)

でもさーーーあ?、これが登り切ったら見えないかな?いやまだいけるよね。諦めないよ。まだ見えるもんね。

(何が?何が見えるの?)

 

 

バスはいちおうその周囲でいちばんの高さの所まで来た。ここから何が見えるんだろう?ゆみちゃんは、自分には見えない何かをふたりがこっそり共有していて、(しかしそれは何も隠しているように見えなかったが)それを疎ましく思った。なんだか悔しくなってきた。こんなところでもったいつけられるのは好きじゃない。

 

少ししてカシャ、カシャッと何度もケータイのシャッター音が聞こえた。ピロリンとも音がした。それは、そら耳だったかもしれない。写メールが死語なように、シャッター音にピロリンはあまりにも古すぎる。ていうかそれは私のケータイだ。

 

バスみたいな公共交通機関で何枚も写真を撮るなんて、それはマナーが良くないと注意しようと振り返った。その瞬間、夕陽が目に飛び込んできた。そこには大きな四角形の窓ガラスの中央に、これまた大きな夕陽が煌々と、そして堂々と輝いていた。ふたりの顔が紅く照らされていた。そしてグレーのブレザーが見たこともないくらいまぶしい。ふたりはよく喜んでいた。

 

ふたりはさっきから、夕陽について語り合っていたのだ。さっきはきっと上手く撮れなくて、バスからなら可能かもしれないと踏んだのだろう。ふたりの期待と思惑は上手く重なり合った。

 

そこまで話したゆみちゃんは黒板に窓ガラスと夕陽の絵を描いた。恐ろしいほど下手だったが、ゆみちゃんは気にせずふたたび語り出した。

 

私はその時ねすごく恥ずかしくなったの。目の前に夕陽のカケラがあったっていうのに、その輝き一つにあんなにも大きくて立派な円形の夕陽を想像できなかったのだから。それと…それに思いを馳せられるほど純粋な心を持ってないんだなって。気づかなかったことに気づかされたの。まったく…考えさせられたわ。あのふたりは紛れもなく、自分の目と心と、そして小さなケータイの中に夕陽の姿をおさめた。それもうまく、とても上手に…。絶景なんて、人が勝手につくり出すものなのよね。

 

 

 

カラスってさーあ、家の中に入ってきたいのかな?どーーなんだろ?みんながみんなそんなこと思ってたら迷惑だよね。うん、でも聞いたことあるよ、カラスがカーカー入れて入れてー、って言ってたの。ゴミ箱にかな?それもまたはた迷惑な話よね。うんうん。