何を書くか、何を書かないか。

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電話と息抜きと「嫉妬」について

 

 

われわれはお互いに背をむけて寝ていた。なぜかはわからない。ただ、そうしたかったんだと思う。ただ、そうしなければならなかったんだと思う。私は、自分の背中を見ることができないし、またその相手の背中を見ることもできなかった。私には何も見えないのだ。できることといえば、暗闇に浮かぶドアの銀色のとってを眺めるほかなかった。

 

いろんな事が終った。戦争。総選挙。八百屋の特売。亀の寿命。法整備。受験。針のいのち。そして、人間の退化が終った。われわれの退化は終った。はずだった。

 

 

思えばこの頃、寝ていなかった。もう少しだけ詳しく言うと、朝起きた時にそれまで眠っていた気がしないのだ。目を開けた時私は一番に、今まで何をしていたんだろう、と思うことがあった。

 

それはとても辛いことだった。そう。私なりに辛かった。食欲と睡眠欲は私を苛立たせた。

たとえば、抱え込んでしまうくらい辛いこと立て続けにあったとする。たいていの場合、その原因は空腹か不眠かにある。そしてたいていの場合、どちらかを満たせば、あるいはどちらも満たすことができたなら苛立ちはすんなりとおさまる。

そもそもどうして苛立っているんだろう?考えても無理だった。世の中は複雑だった。そして、そんな世の中に生きる私たちの私生活の諸問題はもっと複雑だった。

 

私は、何もかもどうにでも操れる、ふっと意識が消えてしまうような脱力感を手に入れたかった。

 

これまで自分は自分が眠れないことを当然のことのように思い、ずっと寝たふりをしてきた。寝たふりをせざるを得なかった。暗闇の中ではいろんなものに出会った。みんな私を置き去りにして何処かに行った。

 

5歳の頃、家族ぐるみでどこかの温泉旅館に泊まりに言った時、女の子はこう言った。

「寝たふりしてる!」

 

「したくてしているわけじゃない」と僕は心の中で叫んだ。

その女の子は2歳で出会い、泊まり先の温泉では一緒の湯船に浸かった。女の子は床の石に滑って背中を強打したが泣かなかった。ばちん、という音がした。私はその女の子と毎日のように小学校に通い、ある朝傘でランドセルを叩いて大泣きされた日は、三日間口を聞いてもらえなかった。石ころの形をしたチョコレートをあげようとして謝った。石ころチョコレートは要らない、と言ったが女の子は許してくれた。

 

その一ヶ月後彼女は函館に飛んだ。親の転勤だった。私は二日間、枕を涙で濡らした。そこにはよだれと鼻水も含まれていたかもしれない。紛れもなく初恋の相手だった。

 

彼女は小五の時に飛んで帰って来た。電話をもらった夕方、夢かもしれないと思って耳たぶをひっぱった。大丈夫。痛かった。その一ヶ月後が待ちきれなくて毎日毎日眠れなかった。当然、一緒に寝ることはもうなかったろうし、たとえあったとしても彼女の方が先にぐっすり眠り、私に「寝たふりしてる!」だなんて言けはずはない。けれど私は毎日「寝たふり」をしつづけた。夢の中で彼女に「寝たふりしてる」と言われることのを期待するようにして。彼女の声がこだましなくなると私は深い眠りの底にいた。私はいつも、暗闇の中で誰かと出会っていた。そこでは握手とかトランプとかあやとりをしながら密なやり取りをした。

 

一ヶ月後、ピンポンが鳴った。胸が弾んだ。ドキンと音がした。そのお昼は給食がろくに喉を通らなかった。大好きな牛乳でさえ、飲むために二十分要したのだ。ドアを開けるとそこには郵便のおじさんがいた。ドキドキを返せ、そう思った。下駄箱に常備されたシャチハタを、仕方なく押してあげた。おじさんの背中に向かって、早く帰れ、と思った。でもおじさんは頑張っていた。汗をかきながらあくせく働き、したくもないのに誰かと誰かの間の信頼を橋渡ししていた。

 

十七時半、すでに日が暮れかかっていた。夕飯を用意された。お味噌汁に箸を濡らそうとした時、その日二度目のピンポンが鳴った。そうか、受話器で確認すればいいんだと思った。壁にかかった受話器を引き抜いた。

 

「はい。」思わず声がつり上がった。

「もしもし。久しぶり。わかる?」

「もちろんわかる。」

 

僕は叩きつけるように受話器を元の位置に戻し、玄関に向かった。走った。ドアを開けるとそこには彼女ではなく、彼女のお母さんが立っていた。私は戸惑った。するとお母さんの背中に隠れていた彼女はひょっと顔を出した。

 

僕は身長が伸び、十分大人になったと思い込んでいたが、それ以上に彼女は大人になっていた。繊細な時期の失われた四年間をとても大きく感じた。彼女の声はいつも鼻声みたいで、その声はまるで耳の裏から出ているのではないか、と思わせた。何も変わっていなかった。むしろそれは強化され、彼女固有のものとしてしっかりと位置を定めていた。

 

彼女が帰ってきてからの学校生活は林間学校の話題で持ちきりになった。クラスが違ったわれわれは学校でも、また放課後でもろくに話さなかった。廊下ですれ違う時、彼女はお腹のあたりで手をひょっと挙げた。それに対して僕は彼女とは反対の手をひょっと挙げた。それだけで十分だった。三日に一度彼女は横に小さく手を振った。

 

九月に入り、校外学習の日が来た。山の中腹でバスは休憩のために停まった。彼女のバスは私の乗ったバスの横に停められた。ちょうど、私の座る位置にと同じような具合で彼女は座っていた。窓を開けようとした。しかしうまく開けることができなかった。彼女の方は窓が開いた。何か言っているがうまく聞こえなかった。友達が周りにいたし「なんて?」というのが恥ずかしかった。彼女は諦めて窓を閉めて大きな笑顔で手を振った。私は恥ずかしかったから、顔の下で右手をゆらゆら揺らした。向こうのバスが先に出た。

 

オリエンテーションで広場に集められた。私はドキドキして彼女を探した。大きな円を作るように、と言われ仕方なくごちゃごちゃした人混みをかき分け僕は円の一部になった。すると彼女はいつの間にか僕の横にいた。私は驚いて「ワッ」と声を出した。みんなが一斉にこちらを向いた。ブンブンと顔を横に振った。そこではくだらないゲームをやった。すごくくだらなかった。けど、彼女が隣にいるだけでドキドキした。だから僕は正確なことを覚えていない。もしかしたら、楽しんでいたかもしれない。

 

これが最後です、と女教師は宣言した。罰ゲームはこのお兄さんにおんぶされること、みたいなことを言った。お兄さんはきっと有志で集められた大学生だった。確かにかっこよかった。順調にゲームは進んだ。ボールが回って来た。そして同時にゲームは終わりに近づいていた。左側の二個隣で止まると思った。しかし止まらなかった。私に来た。私は一心に右側の彼女に投げ渡した。すると彼女のところでゲームは終わった。よりによって、彼女のところで。彼女は全生徒の視線が集まる中で罰を受けた。おんぶされた彼女はひどく照れていた。ニコニコしているようにも見えたが、明らかに顔が真っ赤だった。お兄さんは無駄に走り回った。彼女を背中に乗せ、ぐるぐると走り回った。楽しそうだった。私はお兄さんにひどく嫉妬をした。ひどく後悔した。私のところで止めてしまえばよかったと思った。あろうことか、彼女はあのかっこいいお兄さんにおんぶされた。そしてそこで彼女はニコニコと笑い、時折ハハハと高い声で笑っていた。戻ってきた彼女は息を切らせていた。笑いすぎたのだ。

 

「あーあ、たいへんだった。」彼女は息を切らせながらそう言った。僕はすかさず突っ込んだ。「楽しそうに見えたけど?」

「いやね、そんなの。もうあんなの絶対にしたくない」あくまで彼女は否定した。

「嘘つきだ」僕はそれを受け入れられなかった。

「そんな言い方しないでよ。どうして?嫉妬した?」

「うん。とてもした。」

「ほんと昔からみっともない。」彼女はそっと笑った。ませていた。私たちは昔からしょうもない会話をしていた。

 

私たちはいつも大人の背中を見ていた。そしてその背中に書かれた言葉を読み上げた。時々間違っている、と思ったこともあったけれど、概ね私たちはそこに書かれていることをそのまんま読もうとした。彼女は私よりも早く、背中に書いてある言葉を読み取った。あろうことか、彼女はその背中に顔をうずめた。私は強く嫉妬をした。

 

 

 

* * * 

 

 

 

今の私に5歳の記憶はあるだろうか。5歳。何をしていたかな。お茶を飲もう。そう、ひと休憩いれよう。

 

 

「例えばここが起き上がる。そしたら君はそれを見る。黙視する。ただそれだけでいい。指をパチンと鳴らしたり、一生懸命地団駄を踏んだりしなくたっていいんだ。ただ、視ていればいい。そして、六十秒たったら声をかければいい。バカみたい、って。」僕は、そんなくだらないことを一息で言った。するとその相手はこう言った。

 

「頭おかしいんじゃない?」

「違うんだ。バカみたい、だよ。」訂正して、そう言った。

「アホらしいわ。そんなの。」相手は私の意見を全く聞いていなかった。というよりも根本の趣旨を理解していなかった。僕としても根本の趣旨が何かは分からなかった。

 

 

それでも僕は我慢強く言った。

 

 

「それじゃあこうしよう。」

「それじゃあこうしよう。」

「いま君が、」

「いま君が、」

「言おうとしていることは」

「言おうとしていることは」

「わかっている」

「わかっていない」

 

「わかっていない。そうだ。確かにその通りだ。でもそうじゃない。手を叩こう。」

「でもそうじゃない。手を叩こう。」

「こうやって指と指の間に一本の指が通せるくらいの隙間を開けて、そしてまっすぐにして-」

「指は、少し曲げた方が音は大きく鳴る。」

「そうだ。確かにその通りだ。君の言うことは間違っていない。でも僕がしたいのは大きく音を鳴らすことじゃなくて」

「私の言うことは間違っていない。そうでしょ?いつだってそうだったでしょ?」相手は僕の言葉を遮って言った。

 

「確かにその通りだ。いつだってそうだった。」

「それで…どこが起き上がるの?だらんと垂れ下がったみっともないネクタイ?」

「ご名答。」

 

 

僕は相手と、そんな会話をしたかった。

 

 

 

*  *  *

 

 

 

相手は死んだように眠っていた。しかし実は、その空間には三人いて二人は目を覚まし、一人は死んだように眠っていた。そして生きている私たちは深い暗闇の中で顔を合わせていた。もちろん相手の顔は見えない。月の光さえ入り込んで来なかった。街灯も夜はお休みをしていた。東京だというのに。

 

しかし感覚として、私は相手の顔を認知しているし、相手もまた私の顔を認知していた。そこには必ず相手の顔がある。しっかりとこの眼を使って視ていた。見えないものを視ていた。

 

一日の中でいちばん暗くなる時間、それは一時三十二分。推定時刻、一時三十二分。横たわる相手は本当に死んでしまったのではないか、と心配させるほどだった。相手は、寝息一つ立てなかった。

 

そんな儀礼的沈黙のおかげで私たちの耳には、猫の鳴き声、オートバイの音、上の階の地団駄、トタン屋根に落ちる雨音、全て耳に入ってきた。ラーメンのすする音とか本のめくる音まで聞こえてきたら、僕はその道の達人になれるかもしれない。そんなことよりも、だ。いま相手は何を考え、何をどう思っているだろう?

 

 

もう一人が死んでいないことを確かめてから僕はある男に電話をかけようとした。掛けようとしたところで僕は手元に黒電話がないことに気がついた。上の階の地団駄がうるさいから如何にかしてくれ、と思ったのだけど、夜中の二時だった。昼の二時でも電話に出ないような奴が夜中の二時に受話器を取るわけがないと思った。掛けなくてはいけない理由があったので僕もそれなりに重い気分で受話器を引き上げようとした。でもそこには受話器はおろか、黒電話は置かれていなかった。黒いから見えないだけではない。確かにそこには何もなかった。ティシュもリモコンもはさみもえんぴつも何もなかった。「月は思ったよりも明るいのね」と誰かは言った。

 

 

*  *  * 

 

 

ツーーーー。と音がした。いや、していたような気がした。ダイヤルを回すのに苦労した。昔からよく母親の携帯電話にかける時に間違えた。おかげで知らないおんちゃんに怒鳴られて、おばあちゃんに受話器を投げ渡したこともあった。

 

ダイヤルはその構造が単純ゆえに、よけいに複雑に考えてしまう。ただ回す。それだけでいいのに。いやそれは、回すことではない。滑らせる、だ。決して、どう間違えても、ダイヤルが一周回ることなんてありえないのだ。僕はそんなことを考えながらいつも薬箱が真ん中の段に入ったカラーボックスの前に立っていた。最上段には、耳かきと1987年の新聞紙が詰め込まれていた。

 

ダイヤルを回そうとすることに気が向いてしまい、その瞬間瞬間に私がどの数字まで到達したか忘れてしまった。その致命的な記憶力と圧倒的不器用さによって私は、047357284726292047369292みたいな、円周率の四十桁を超えたぐらいに出てきそうな数字を回しているようだった。諦めて受話器を置いた。ガチャりという暖かい音がした。この電話は、コードを抜かれても、たとえ三十年使われなくなってもガチャりと言う音を失うことはないだろう。

 

 

ウエノカイノジダンダ?ガチャりで思い出したんだけど、ここは最上階だった。電話に出ない男は、例によって受話器を思い切り叩きつけるように置く類の人間だった。私はその男が憎くてたまらなかった。ずっとずっとずっとずっと。

 

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