何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

好きにやればいい

きょうは、いつもよりも駄文になる。

 

わたしは、どうでもいいと思うくらい他人の恋愛には興味がない。立ち話や喫茶店で話題になるくらいなら構わないが、そういった話が持ちきりで一日を拘束されるのはたいへん苦痛だ。ともかく、恋愛相談はまた別でやってほしい。この頃「書く」ことについて考えることが多い。悲しいことに何か出来事があった時「これはわたしならどう描写するかな」と即座に思考してしまう。誰からも「書け」となんて言われていないにも拘らず、自ずから「書きたい」と思ってしまう。これを誰かに相談したなら「勝手にしろ」と一蹴されてしまうだろうけど、小学生の頃だったら考えられないようないまの自分がいる。きょう、学校の近くではないブックオフに立ち寄って書架を眺めていた。ひとりのおじさんは書架の前に設けられた黒い段のようなスペースに腰かけていて、もし子どもがそうしたことをしているならばすぐに大人は「みっともないことはやめなさい!」と叱るだろう。わたしは叱らなかったがすこし呆れてしまった。また、もうひとりのおじさんは、息を「はあはあ」とさせて忙しなく店内を駆け回り、手に掛けられたカゴには官能的な漫画(と思わせるような表紙のもの)がびっしりと積まれていた。たぶん今ごろ楽しんでいるんだろう。そういえば前回のブログにも記したが、わたしは仙台市内にある高校の女子生徒にインタヴュー調査をさせてもらった。きちんとした手続きを踏まず、幸先悪く、顧問の先生に5分ほど尋問を受けたが表情を変えないようにがんばってかわしたら笑顔で許可をいただけた。「どうぞ」という笑みに、ここ最近でいちばん冷や汗をかき手に持っていた紫色のタオルを濡らした。女子生徒本人も「あんな先生の顔みたことなかったよ」と友達に話すのを見たところ普段は優しくキチンとした先生なんだなと思った。そんな女子生徒たち5人に「あなたたちにとって応援団とはなにか」についてを遠まわしに2時間半ほど聞かせてもらった。*1 最後の問い*2に彼女たちは、口をそろえて「メンタル」という言葉を吐き出した。わたしはこれから、その言葉の背景を考えていくためにいろいろな文脈と意図を分解してゆく。また帰り際には、4人のうちの1人が「声出しテスト」を実際に見せてくれた。終わってから「えへへ、間違えちゃった」と言っていたけれど、わたしは純粋に感動した。先生にも頭を下げ、無事事なきを終えた。取材協力を依頼した団長さんとは何度かやりとりをした後に、こちらに帰ってきてメッセージを開くとその団長さんから「わたし自身も応援団についてもう一度考えるきっかけになりました。ありがとうございます」とお礼を言われた。お礼を言いたいのはこちらの方だし、なにより彼女たちの2時間半という貴重な時間が無駄なものにならなくてよかったと嬉しくなった。そういえば、この頃、〇〇観という言葉が氾濫している。結婚観、人生観、宗教観、、そして価値観もそうだろう。「〇〇の観(み)かた」なので価値判断とは異なる。よく人の色恋沙汰に「価値観の違いで」というフレーズを聞くがわたしはそういった言い訳はしたくないと考えている。結局はものの観かたなので、どうやって観ているかが問題なのだ。一面的な観かたをしていたりただ色眼鏡を掛けて観ているだけかもしれない。そういったものの観かたや認識の方法を改めるだけでも社会学を学ぶ意義はあるんじゃないかってこの間父親を説得したが、まるで聞いてくれなかった。そんな親は何度言っても悪い酒を止めてくれない。「好きにやればいい」のだけど、母親を困らせるのだけはやめてほしい。もちろん、自分も対象のひとりではあるんだけども。

 

 

 

*1:途中から4人になった

*2:応援団をやってきて何か、性格とか変わりましたか?