何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

言うならありがとう、で。

 

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「失くしてみてはじめて大切だと気づいたよ。」というようなフレーズを一度は聴いたことがある。わたしの日常にもよくある。

 

自転車のカギ、色ペンのキャップ、本に挟む栞。

 

いやいや、それも大事だけど。

わたしは18年間、とりたてて親のたいせつさを気にかけてこなかった。うそと言えばうそだけど、ほんとうと言えばほんとう。親元をきちんと離れた年の誕生日のよる、つまりは一年次のあき、泣きながら電話したのを覚えている。自分の口がそう言ったのに、どこかで他人がそう言っているような感覚に陥った。言ったのが自分の口ではないような気がした。「産んでくれてありがとう」と。

 

当たり前のように存在するものに対するありがたみを知るのはたいせつだ。

 

わたしの彼女もしかりで、当たり前のように存在するわけではないけれど、とくにこの頃は「いろいろしてもらっている感」がぬぐえないでいる。わたしはよく助手席に乗せてもらう。いつもごめんねと謝るのに対し彼女は気にしないでという。

 「言うならありがとう、で」

 

「言うならありがとう、で」とは、はじめの頃にわたしが彼女にかけたことばだった。でもこの頃は、言われっぱなしだ。もしかすると「いっしょにいるのがあたりまえ」なのは、お互いにとって損かもしれない。当たり前に存在すること、と認めてしまいその「たいせつさ」を忘れてしまうから。

 

上のような日常のできごとを何かで知った母は「(あなたは)男なのに。」と電話越しに言った。耳を疑ったがそれもしかたなかった。いろいろ通り越して悲しくなった。わたしは気持ちを抑圧して「母親が、そんなことを言うなんて残念だ」と返した。何回かお互いの怒号が飛び交い、パッと向こうから切られた。音がなくなった。さらに悲しくなった。

 

 

わたしたちは4年生なので、順当に社会のレールを走って、いや歩いていけば、もうひとつの側面を見せた社会に放り投げ出される。彼女はついこの間、内々定を受け取った。わたしも喜んだ。半面、がんばらなくては、と落ち込んだ。なんと言うか、こんなことは考えたくないのだけど、ただ、頑張らなくてはと感じた。また、ごめんねと言ってしまった。

 

その子になにをしてやれるか、をよく考える。してやれるか、だなんて言っておいてとてもエラそうだ。でも、なにかしてやれることはいっぱいあるはずだ、と思いながら毎日を過ごしている。たのしいかと訊かれたらたのしいと答えるが、たいへんかと訊かれたらたいへんだと答えるかもしれない。

 

同じタイミングで社会に放り出されたいなあ、と思いつつきょうも眠る。この頃は毎日、それしか考えていない。おたがい、もうすこし、一人だけの時間が必要になるかもしれない。いまは目に見えなくとも。

 

謝るのもたいせつ。でも、「言うならありがとう、で」。

 

さて、きのうきょうでふたつの「はじめて」を実行した。ひとつは、はじめての映画。もうひとつははじめてのラーメン。うーん、ありがとう。

 

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