何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

出現した

 

f:id:masa1751:20180902222838j:image

何も書くことがなかったわけではないが、気づいたらもう9月がやってきていた。あさっての20時には24歳である。まだ24歳?もう24歳?ハタチを過ぎてから自分の歳がすぐに判別できなくて、201n年から1994年を引いてやっている。

今年の夏が昨年のと何が違ったかというと、一言で表せば「猫の出現」である。私は生き物を飼ったことがないから、猫と過ごした夏の日々(なんか響きが切ないな)はまことに刺激的だった。まあ「猫」にしてみれば「好まざる不審者(ストレンジャー)の出現」であろうが、彼女不在、二人きりで幾夜も過ごせば細かいことはどうだっていいでしょう。今夜もその一つです。彼は寂しがりなのかそうでないのかどうもわかりかねる。

ドアを押した時にミャアミャアと飛んでやってくるのに、しっかり構ってやろうとカバンを下ろす頃には、彼は背中を向けてトコトコと離れて行く。こちらもたまらず構おうとしないとズボンの裾に爪を立てカリカリとやる。抱いてやると「降ろせ降ろせ」と鳴いてしっぽを振る。また構わずに伸ばした脚にPCを乗せキーボードを叩いていると、機械に乗ってくる。それがいい。噛み合わないのが楽しい。「何を考えているのかわからない」のは僕は大好きだ。でも、壊さないでね。

 

この週末は久しぶりに一人でいる時間が多かった。まず取材がなかった。第二に彼女が不在だった。2日間、何か企画にできそうなものはないかと古書堂と書店で「立ち読みし、何冊か買い」と繰り返し、練り歩いていた。耳元にはトロトロしたジャズを響かせていた。

今にも雨が降り出しそうな空の下たらたらと歩いていると、入社してすぐだったか「無駄が愛されないこと」について書いたことをふと思い出した。その時、会社では「報告」というものはとにかく実利的で、簡潔で、無駄がないことが求められているということをレクチュアでまざまざと思い知らされ、「ああ、生き辛いな」と感じた。今となっては当然のことだと思えるし、とはいえ100%実践できていると思えないので深いコメントは差し控えるが、ある種の葛藤や困惑があってこそ今があると思える。

もともと週刊誌やファッション、マガジン読むようなタチではなかった。今となっては言えるが(面接試験でも「ランナーズ(弊誌です)は知りませんでしたし、これと言って愛読する雑誌もありません」とはっきりと言った)かれこれ雑誌というものに小銭を出したことがなかった。しかし今は勉学のため、と思って種々様々な雑誌に(下衆いものからきれいなものまで)手を伸ばし、小銭を出し、読んでみるとおもしろい。世の中の人間がどんなものに興味を惹かれ、小銭を出し、電車などの移動体での暇つぶしにのみ利用しているかが知れる。

「こんな見出しをつけたら読まれるだろう!」というのが現存する週刊誌、雑誌にも6割くらいずつ散りばめられている。これについてはおそらく、「こんな風に書けば手に取ってもらえるだろう」というパターンというかテンプレートのようなものがあるのであろう。セグメントやカテゴリにするともっと複雑になるであろうが、テンプレは必ず存在する。

逆を言えば、週刊誌などの表紙や目次で期待値をグンと高められ、本文でもとても面白かった! というケースは稀である。中身(本文)までおもしろいものは残念ながら少ない。大体においてトピックや話題性は目次や表紙で完結すると、この半年でよく分かってしまった。したがって本文でも”よく”読ませることはたやすいことではない。

昨今の嶋浩一郎さんのコメントを見ていてもわかるように「無駄が愛されないことは、つまり面白くないこと」である。そこらへんに転がる日用品にでさえ「かような意外性を持ったイノヴェーションはどのようにして生まれたか」などと考えさせられることが往々にしてある。

これまで適当に読み飛ばしたものや、よく知らないで貪るように読んでいたコメントがきっかけで、新たなアイデアが生まれることがある。その可能性がちょっとずつでも芽を出してきている。学生時代に頭を1ヶ月ひねってよく分からなかったことがあった。一方でよく分かったこともないでもなかった。それらが今後に生きそうだと少しだけ期待できそうなところにある、と予見している。

心では分かっていてもなかなか表に出てこなくても、これまでの蓄積を表す本だなをもう一度眺めてみる。私の本だなはもちろん完璧ではないけれど、眺めているだけでやっぱり面白い。ここ最近に関しては安部公房林真理子、買った当初はくだらなそうに思ったビジネス本など「なんでこんな本にお金を出したんだ」という本がおもしろい。アイデアの価値に優劣はあっても、細かい「点」として見れば上下はない。たとえつまらなくても、そのつまらないアイデア(トピック)さえ自分が点として生み出せなかったのなら、そこから学ぶべきものやことはあるはずである。

流行はめぐるので「激しい消費」が減ることはあっても無くなることはない。しかし人ひとりが持つキャパシティには限界がある(少なくとも庶民である私のような人間は)ので資源の持続可能性(サステイナブル)を考えないといけない。情報は無限に増殖し続けるが、話題の新刊や最先端の家庭用テクノロジーを買い続けることはできない。ずっと前、学生時代に買った本や残したメモがどこかでパッと目を覚ますはずです。

過去を正当化するのではなく、意味づけするのでもない。誰かの表現を借りれば「引き出しの奥から出し」て「被ったホコリを払う」。「もう一度ライトを当てて細部を磨いてみる」。どこかで学んでいたことを掘り起こすという意味において「大人の学び直し」は成り立つのではないでしょうか?

 

masa1751.hatenablog.com