何を書くか、何を書かないか。

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無駄が愛されないということについて

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「今日はよく晴れた一日だった」ということを朝と昼休みと夜空の情報からしか話すことができない。食堂はビルの五階にあってそこは最上階である。三方向がガラス張りになっていて、北東には東京タワー、そのまた向こうにはスカイツリーが立っている。懲りずに毎日、満員電車に揺られている。私はやせ我慢をしている。満員電車でも、多少通勤に時間がかかっても、駅まで結構歩くけど、そして誰も起こしてくれない、帰っても誰も話す相手がいない一人暮らしであっても「なんとかやっていけるだろう」と思うようにしている。昔から頭が悪い。また要領も悪い。

帰るとそこには誰もいない。玄関には、朝に濡らした髪を乾かすために持ってきた茶色い椅子だけがポツンと佇んでいる。玄関先の電気は点いたままだった。私にしてはまあまあ珍しいことだった。珍しいといっても学生宿舎の頃、入居して2ヶ月で部屋の鍵を無くした。そこを出る直前の3月に見つかるまで、ずっと開けっ放しにしていた。

まだ通勤用定期券を作っていないから、帰り道はいつも使う路線を変えてみた。比較的空いていて座れた。今日は水曜日。世の中では水曜日が特別な日なのだろうかと少し考えてみた。私はまだこっちに住んで間もないし、ついでに言うとイナカモンの出(で)なので、そういう論理が時としてよくわからない。空いていたから気分が良くなって、その路線を明日も使ってみようと思った。ただ1つ言えるのは、JR山手線の乗客よりも品がよかった。彼らは割と本を読んでいた。イヤホンで英語のポケット参考書を片手に小声で英語を唱えるサラリーマンもいた。私はそこで、村上さんの『風の歌を聴け』の読み終えた。3度目だった。

夜道を歩いていた。細くて暗くて、妙に長く感じる道だ。1日働いて歩く1.4kmは実際に長いのだ(とはいえ、まだ働いていると認められもしない作業量である)。頭の上に広がる空が奇妙だった。月の光が強いのか、ぶあつく覆った雲がよく照らされていた。波打つぶあつい雲はどこへいくのだろう? 私にはよく見えなかった。停止したトラックの運転席に人がいるような気がして目を凝らした。もぞもぞとしていたから注意してみてみた。目を凝らしているうちに停車するトラックの近くまで来た。茶色い長髪の男が何か話しているようで、それは電話だった。耳元が仄かに明るくなっていたので、電話で話している、と思った。もしかするとゲームボーイのSPだったかもわからない。男はフロントガラスに向かって何度も頭を下げた。まるでそれは目の前で無理を言うクライアントがいるみたいに何度も頭を下げた。数メートル先に木の枝が落ちていた。昨日の激しい雨で折れてしまったようなちぎれ方をしていた。どこからともなくカレーの匂いが香ってきた。子どものはしゃぐ声が聞こえてきた。雑木林は”あやしく”繁っていた。猫は人なつこく、つきまとうように尾行してきた。何も食べ物を持っていなかった僕は、その猫に何を与えてやればよかったのだろう? 与えないが”正”である。痛々しく折れた木の枝はイモリかヤモリにみえた。襲ってくるはずもないそれを警戒したが、なんてったってそれはただの小枝だった。池がついた公園の脇の草っ原には私の手のひら大のウシガエルが大御所のように座っていた。桜は街灯の光に照らされ、散る花びらは雪のように煌々と輝いた。輝いたというのは嘘かもしれない。あくまで綺麗にみえたことの喩えだ。おじさんは容赦なく私と同じくらいの歳の女性を、肩と背中を使って押しつぶそうとした。かわいい女性の方にはそうしなかった。学生くらいの男子はおじさんに必死に抵抗していた。おじさんは「一歩も退かない」という感じだった。先祖代々言い伝えられてきた教えを守っているようだった。おじさんの肩はプルプルと震えていたから私は「肩の力を抜いたほうがいいですよ。そうすると肩凝りもよくなりますし、何よりもうすこし広々とスペースを使えます。」と言おうと思った。その言葉は本当に喉まで出てきていて、私はそのために本を閉じ、イヤホンを取ったぐらいだった。

今日は会社に生きることとは「無駄が愛されない」ことなんだと説きたかったけれど、疲れたからやめる。