「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

ジャスト・ビリーブ・イン・ラブ

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雨の降りの朝、満員電車はやはりきつい。会社に傘を忘れた私は濡れながら駅に向かった。そして、またもや濡れながら駅を出た。

 

七時半に家を出て、十二時間後にまたここに帰ってくるかどうか思い巡らせていた。この頃の私は生活が乱れ、ダラダラ帰ってくると平気で九時を超えてしまう。十二時間のタイムリミットが課せられたなら、きっと私はそれを守れず家は焼かれるだろう。もっとも私の部屋はマンションの一室であるから、全てが焼き払われることはないだろう。ならば、どうされるだろうか。そもそも、そんなタイムリミットを課してくるものは一体誰なのだろうか。なんて、そんなくだらないことを考えながら、私は例のごとく通勤していた。忙しく、のんびりと、お腹を空かせて。

 

朝、家を出る時、精神的に肉体的に「きつい」のだが、十五分揺られる頃から醒めはじめる。それはちょうど本を開いて三ページくらい繰った頃だ。私は社会人になり、会社の名刺を持たされて、毎日毎晩へこへこと頭を下げているわけだがその一方でカラダのリズムは、バイオリズムは変に固定されていてまた習慣化された。綺麗な言葉を使うなら「生活の洗練化」といえるだろうか。以前なら無理して六時に起きているところを、今となっては無理も何も、視聴予約に合わせてつくテレビとともに目を覚ますのだ。誤字後住胡粉

 

 

 

カラダが醒めてくる理由はたくさんあって、またそれは複雑に絡み合っているのだろうけれども、一番もっともらしく、なおかつもっともらしからぬ仮説を提示できるなら「朝食を抜いているから」であろう。もちろん良くないことなし褒められたことじゃない。それを勧めることはもちろんしない。けれど、食べられないものを無理にとりこみ、ちょうど眠くなるころ電車に揺られる方がわたし的にはきつい。座れないことは元からわかっている。しかし、すこしでも眠たいか眠たくないかで精神的な負担やストレスは全く違ってくる。大きな差を生む。現に、空腹で眠くない状態である方が、本は進むし音楽も心地よく耳に入ってくる。反対に眠たくて座りたくて座りたくてたまらない精神状態で聞くラジオほど迷惑なものはない。どこの国の言葉を話しているのかさえわからないようなただの雑音にしか聞こえないのである。

 

ここまで書いてみて私は思った。こんな風に「朝食を抜くこと」を合理化すれば、翌朝の出発も少しは気が軽くなるだろうと思って手を動かしていることに気がついた。そんな風にして苦し紛れに自分を売る行為を厭わなくなったのだ。そんな歳になったのだ、私も。

 

 

 

千駄ヶ谷の臭いラーメン屋が九十三.二ポイントだったので仕方なく今日の昼ごはんはそこに決めた。駅から会社に向かう途中の道にある。返せば、会社から駅に帰る途中の道にある。横にはスラッガーという野球専門の小売店があり、その次はローソン。そして河出書房本社とそれに併設したカフェだ。

 

臭いラーメン屋のそれは別に悪くなかった。しかし臭いが臭いだった。メンマもフニャフニュフニャで、わざとそうしているのかもしれないが、めんま目当てでラーメンを食べようとするくらいの私にとってはマイナス・ポイントに近かった。(きっぱりとしたマイナス・ポイントではない。)臭いスープは取り放題のネギによって多少、相殺することができる。もちろんネギの匂いもつく。これは爆弾と爆弾を取り替えっこするようなものだ。無価値な取引。私は出来るだけやまもりにネギを盛った。それを浸した。

 

さて。いいことを思い出してみよう。目下工事中の国立競技場は荒れていた。違う。麦茶が冷たかった。三角。階段が油でべたついた。違う。『ジャスト・ビリーブ・イン・ラブ』が不意に流れてきた。これだ、正解。

チャララララン。でわかった私は自分を心の中で褒め称えた。同時に、懐かしくて涙が出そうになった。無論、私は涙を流さなかった。

揺れる想い』は曲名でしかないと思っていた。違った。その揺れる想いはドラマなのだ。その中の主題歌がジャスト・ビリーブ・イン・ラブだ。曲の揺れる想いは1993年。生まれていない。ドラマは1995年。私が生まれて半年経たないくらい。なぜ知っているのだろう?そんな歳になった?もっともらしい理由を誰か教えて欲しい。無論、それは私にしかわからないことだ。

 

 

 

ジャスト・ビリーブ・イン・ラブを聴いてからの私は、三半規管がうまく機能しないように頭がぐらぐらと揺れている。視界もボヤけ、首が痛み出した。どうやら私は臭いラーメン屋で、爆弾を拾ってきたみたいだ