ヨゴレッチマッタ敷毛布と五反田くん

 

幸せなことにこうして書くものが圧倒的に減っても読んでくれる一定数の「誰か」がいる。更新しなくても目にかける「誰か」もいる。帰ってくる場所の明かりをつけても、そこに誰もいないが、画面の明かりをつけるとそこには「誰か」がいる。不思議なよのなかだ。

 

この四月・五月ではスプートニクの恋人1973年のピンボール風の歌を聴け羊をめぐる冒険(上・下)を読んだ。風の歌を聴けは三度目。騎士団長殺しは三月・四月に読んだ。そして今、ダンス・ダンス・ダンスの上巻に手をつけている。

やっと五反田くんが出てきた。いつだったか、fktackさんの文章か何かで五反田くんについて語られていて、その時確かとと姉ちゃんがやっていたのか終わった後かだったが、及川光博が五反田くんをやっていた。正確にいうと、五反田という名前をつけられた呼び名が五反田くんの五反田さんだった。fktackさんの文章の中で何度も読みたい読みたい読みたい、と思ってきて今日やっと、五反田くんに邂逅したわけだが、出合いがあまりにもなんというか生々しい。五反田くんは悪なのだろうか?

 

好き嫌いや選り好みをしているわけではないつもりなんだけど、私はこの頃村上さん(村上春樹)しか読めなくなっている。日常・非日常について書けなくなっていくのを肌で実感するのと比例して、それしか読めなくなっている。なぜか。こういう時期なんだ、と思うしかない。というかそもそも悪いことではない。今、私は書いてないだけで、それは未来永劫ずっと続くわけではない。いや別に、書けなくたっていい。

 

こういった諦めを許せなくなるのが、ビジネスの世界だ。降りることは赦されず、無駄は愛されず、物語は地中深くに、深くに埋められて、時が経ちそれが化石になる頃に掘り返されては持て囃される。掘り返されては持て囃される。どこかのラッパーが言った。やっぱ言っただろ、という人はどこにでもいる。五反田くん。物語は大切だ、と何処かの誰かはきっといつか言う。永沢さんの言うことは正しいのかもしれない。ただそれは、本質的なもんだいとして。

 

村上さんのものについて感想を書きたいがいつもやめてしまう。怖いのだ。理解していないことを許さない自分が背中をつつく。そんなことじゃこの先生きていけないぞ、と言う。しかしそれはただの思い込みに過ぎない。幻想でしかない。幻想が怖いのだ。

 

自転車で走りながらあれもこれもと書きたいことを膨らませていた。けれど今こうして、画面の前に構えると文字が浮かんでこない。「断片」が深いバンカーに突き刺さっていて、重要な本体が見えない。しっかりと埋もれていて、尖った部分だけが姿を見せているのだ。逆だ、と思った。文字が浮かばないのは致命的だと思える。補足するならば、文字は浮かぶんだけど画像でしか語られない。浮かんでは消え、ではない。(重要なことは決して映像化されない)映像化されるものは全て、画面の前で構える自分を部屋の隅っこから見つめているところだ。(見つめるのは誰だ。)小説は誰の目で語られるのか、ということを社会学者で文学界入りを果たした岸先生はよく言っている。文章でも見かけたし、実際にお目にかけて口にするのも目撃した。「俺」は「俺」なんだけど、そして書いているのも俺なんだけど、俺じゃない誰かを書く時、それは誰の目で見られていて、誰の口で語られているのか、ということだった。それは確かに、想像の飛躍ということで収められてしまってはいけないことでもあるように思えた。疑似体験というのもおかしいだろうか?私はそういう可能性があっても良いと思っている。猫が姿を消した。

 

家の後ろの後ろにある寿司屋に住み着く猫が姿を見せないのだ。2週間前、夜のランニングを終え、帰ろうとしたら猫がすり寄っていた。一ぴきは寝て、一ぴきは私にすり寄ってきた。かわいいな、と思いながら撫でていると、不審な男が千鳥足気味に寄ってきた。怒られる、と思ったが彼は寿司屋の倅で、今年で47になった。俺はいい年だけど10年前に彼女に逃げられたっきり、色っぽい話はなああああんもないよ、と言った。彼女? 彼と30分話し込んでいると、弟が裏口から出てきた。彼らは年子だという。おいお前ら何してんだ、という雰囲気で弟は立っていたが、集まり、話してみると彼もただ酔っていた。われわれは仲良く話した。こんな風に人と話すのは久しぶりだった。というか、初めての感覚だった。猫は三びきいて、一ぴきのクソ野郎はどいつにも種をうえつけるからって、メスの二ひきを治療した。これで安泰か、と思ったら、こいつは怪我に病気にしてる。全部俺がやってんだぜ?と兄は言った。猫を撫でながら、今にも泣きそうな声で説明した。無論、兄は泣かなかった。飼ってるんですよね?と念のため確認してみると、あそこの道一本挟んだところにおっきな家あるだろう。そこの子だ。と、弟の方が飄々と語った。弟は妻も子どももいた。日をまたぐ前に帰らないと次の日の妻の機嫌が悪くなる、と言った。結局23:52に弟が先に帰った。われわれはケー番を教えあい、別れた。なんだこの茶番は、と思いながら階段を上っていると、ラインが鳴った。兄に友達登録されたのだ。僕は初めてさいたまで友達を作った。それで1週間、あの猫を見ていない。私はその家の前を通るたびに猫を探すがどこにも見当たらない。汚れちまった敷毛布に姿が見えない。ただ静かに、そこには誰も乗せられず佇んでいる。ヨゴレッチマッタ敷毛布はとても寂しそうに置かれている。それはまず、風になびかないし何からも濡れない。猫は帰ったのだろうか。彼の愛する猫は消えたのだろうか。