3時になり閉店のお知らせを聞き、いそいで店を後した。帰宅して30分程四季報を読み耽ったが頭に入ってこないので寝た。そう、アマゾンから四季報が届いたのだ。就職課に頻繁に通い深く読み込んでいたけれど、これは手元に置かねばならないと思って購入をした。アマゾンは便利。本屋さんがイチバンだいじだけれどアマゾンもその二の次くらいにだいじだし、ほんとうにほんとうに便利だ。
きょうは、学部の違う1年次からの友人と食事を取ろうということで昨日から連絡をやり取りしていた。かれは国際系を専攻していて時間にはルーズな方であったから、想定内であったけれども、やはり寝ていた。僕は部屋で静かに笑った。叩き起こしてやろうと思い、かれの家に向かった。ベルを鳴らすと眠そうな声とともに寝起きと思える様相でかれは僕を出迎えた。平常運転だった。
繰り出される他愛のない会話は、過去に比べてひとまわりもふたまわりも成長していたとおもえる。ふたりは違った学部であっても同じ大学の大学生としてつくばで生きている。お互いいろんなところに出向く。そこにはいろんな出会いがあって、出来事があって、話題に尽きなかった。互いにいろいろと掘り返しては会話を続けた。
僕が普段からおもっていることや、抱いている違和感についてなどをかれにたくさんぶつけた。かれも同様に思っていることを僕に投げかけてくれた。そこで、多種多様なかんがえ方をもっているかれは、さまざまなアプローチの仕方を僕に提示した。自分自身を高めるために書くというアウトプットの行為には限界があると僕は思っている。少なくともいまの自分には。ではそれをどう補うか。やはりそれは対話だった。対話することは、絶えず自分のうちにあるものをどうにかして音にして外界に押し出してやることだと思っている。対話のできる他者がいる場合、その人の耳が不自由ではなくて思考するのが可能であれば、その音として生みだされた声に対して即時的な反応をしてくれることが見込める。
そこではいろんな意味で、独り言では可能にならない「気をつかう」ということが対話においては可能になる。その気をつかうことはあの「気を遣う」ではないんだけれどもだいじそうな何か分からないでいて悩んでいる。だいじなんだとまずまず感じることはできているんだけど。
きょうのメモ
こえを獲得する
違和感をひろう
想像力もたいせつに
おやすみなさい
2がつもよろしくお願いします