「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

感じたこと

 

以前にあるログを公開してから、ベッキー問題やらSMAP問題がまた少し進んだ。

 

正直なところ、どちらの問題も僕の生活には何の影響も及ぼしていないので、どうでもいいことだった。ベッキーの相手がたまたま「ゲスの極み乙女」のヴォーカルさんだったことで「げすのきわみおとめ」という刺激的な名まえに相応しいプロモーションが出来たのではないかと思うし、なにより歌そのものについては、その人の人柄をあまり考えない方なので、引きつづき聴いて楽しんでいる。SMAPのも「特別扱いはなくなるか?!」とかいうへんな話が出てたけれど、僕はそんな制度自体を知らなかったので本当に本当にどうでもいいことだった。と言いつつも少しだけ言うなら、できないとしても日本国民、一ファンとしていままでのようにしていてほしいと願うかな。なにより今までのスマップの功績って本当にすごいんだから。辞めるなら辞める、続けるなら続ける、どちらかにしてほしいと思う。芸能界は闇が深いとかよく言うけれど、そこにいる人たちは、それぞれがそれぞれに結局のところ「ひとりの人間」なので、間違いを犯すことはあると思う。なによりもスマップの問題に関しては、スマップ自体が悪かったのかどうかさえ明らかになってない。まあ、ちょっと経てば忘れられるんだろう。

 

 


ゲスの極み乙女。 - 両成敗でいいじゃない

 

 

***

 

 

ちょっとだけ、体育学生らしい話をしたい。たまには。ほんのちょっとだけだよ。

 

以前、チームメイトと話をしていたときのこと。練習中のおしゃべりについて触れた。私は体育とスポーツを学んでいるので、「座学で受け取った知識」はキチンと能動的で身体的な活動を基にして「きょうから使える知恵」へと変換していかなければいけない。そこで今日、頭のいい人たちの尽力によって科学的に証明されてきたことを「効果は人それぞれ」という意識の範囲内で自分なりの効果を実証させたいと思ってやっている。

 

自分に合ったものもあれば、合わないものだってもちろん存在する。コーチはそのことを自明のように知ってはいるが、おおきなリスクがない限り滞りなく知識の受け渡しを施してくれる。でも、それがきちんと自分の身体に合うかどうかは自分自身が見極めなければいけないことなので、お医者さんからお薬をもらうのと同じように、自分のやり方次第ではどうにでも効果が変化してしまうということを注意しておかなければいけない。

でもそれがとても難しいところ。

 

 

それでさっきの話に戻ると、「練習中のおしゃべり」における問題点は

集中力が欠ける ことによって、せっかく自分が会得した技術(ここで言うのは運動直後に得た感覚の情報)をどっかに置いてきてしまう

ということだった。気づかさせてくれて本当によかった、ありがとう。

 

これは運動技術論、主に運動学の領域ではなしされることで、僕はその話にもっともだと頷いた。「フォームなどに再現性がない=技術の習熟度が低い」というのを認識的に僕もよく口にしてしまうのだけど、本質的に、一度生み出された運動に二度も三度もないわけで、大きな形としてフレームとして、走る行為は続けられたとしても、その一つひとつは決して同じものではなく異質なものとして生産され続ける。 

つまりは、その、完璧に再現されるものなんかない。

 

もちろん、世界で活躍をするためには、勝っていくためには、僕自身には判りえない精度の技術の世界があるんだろうけど、本質的には上に書いたことが理論として構築されている。

 

だから、もう十分な時間がない僕にとって、今やっている一つひとつの運動を何一つ無駄にはできないわけだ。よくも悪くもそこで得た感覚をどれだけこぼさないようにして、善いものに塗り重ねていけるかが重要で、つまり僕は練習中におしゃべりをしている暇がないんだと主張したい。

 

今年が最後になるか、はたまたその先に道が拓けるか、これも僕しだいだ。

明日も朝練習と午後練習、大変だけど頑張ろう。

 

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