何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

3月8日(金)

仕事帰り頭が疲れている時、本屋に立ち寄りたくなる。何故かはわからない。わからないなりに何となく書きます。あまり共感してもらえないかもしれない。でも書きます。

仕事柄、文字活字を読むことは少なくない方だと思っています。「もうこれ以上お腹いっぱい」(ふさわしくないかもだけど)そう思いながら会社のエントランスを抜け、慣れた駅までの道を歩く。ふといつか読んだ本の一部分が頭に浮かぶ。反芻できる時もあれば、ぱっと浮かんですぐに消えてしまうこともある。あれはどこに書いてあったか脳内で探す作業は、音楽(メロディ)を似たようなシチュエーションで探すことの次に好きだ。戻る。頭の検索窓にかける。場面。人。性別。どうやって知ったか。どこで読んだか。土地。性別。年代。ジャンル、、、、いろんなフイルターにかけてみる。見つかることもあれば、見つかる途中で忘れてしまうこともある。不思議なことに見つけられるかどうかは、その本(一文章)にかけた時間や情熱に比例しないというのが経験則。それに似た新しいものを探したくて、いや、探すという表現はやっぱりふさわしくない。たまたま出合いたくて、疲れた頭が「本屋に行きたい」という欲求を生み出すんではないかと勝手にこじつけてみる。疲れた頭で本を探すのはきっと楽しいだろうなぁ。次に住むところは、道すがら立ち寄れる本屋があるとからがいいなぁ。と考えている。

一人暮らしを始めた大学生の頃から自分の本棚を作ってきた。本棚だなんて言えないかもしれない。大小、ジャンルが様々な本の羅列。今でこそ無くなってしまったが学生の頃は1日のうち全く人と話さない日があって、そんな日はゆっくり起きて、その大小、ジャンルが様々な本の羅列の前でぼうっと立った。ぼうっと立って、一冊手に取り、手に取ってすぐ元あったところに戻すこともあれば、あるいはベッドに寝転がり読みふけることもあった。誰にも会わないと言葉が溢れた。何か文字にせずにいられなくなった。恥ずかしい限りだけど、そういう理由でこんな方法をとって文字にしてきた。読むことは同時に書くことだと誰かが言ったけど、そのプロセスに至るにはあまりハードルが高くないと思った(でもそのハードルはあまり超えられない)。通信手段が発達したお陰で機械と機会を持っていれば「無料」で誰かと話すことが難しくなくなった。あるいは数十〜百文字にしたためて、ネットに流すこともできた。そんな数十、百字で事足りてしまう。「昼飯なう。」が美しい。究極の個人文学。だけど自分はそれで事足りないから、たとえ数十、百文字程度ででも、エントリとして見られる形(これ)をとっています。収まらないんですけどね。

----------------------------------------------------------------

仕事帰りって文字を自分で打っていて変な感じがした。「父さんに仕事帰りに買ってきてもらおうよ」と母に言った記憶がパッと思い浮かんだ。仕事してるのかなぁ。