何を書くか、何を書かないか。

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1人ということ

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僕は、高校卒業まで東北の地方都市に育ち、学生時代は北関東の片田舎の学園都市で暮らした。学生時代から数えると一人暮らし歴は6年目になる。この年数は、数字だけみると幼稚園を卒園してから中学校に入学する年数と同等になる。 だけどその中身はもちろん異なる。そんな僕がいざ東京に放り出されると、根本的に1人なんだと実感させられる。 学生の頃、一人暮らしの初めはそれはそれは楽しくて、友だちと遅くまであっていても誰も文句を言わない。でも時間が経つに連れ、次第に”旨味は薄れて”いく。これについて僕は学生時代、”安っぽいアイスコーヒーのようなもの”と思っていた。    

さて根本的に1人ということについて書こうとすれば半年くらいはかかると思う。これは技術的な問題であり精神的な問題でもある。おそらくは後者が大半のパーセンテージを占めている…。どれだけ泣いても笑っても怒っても、1人である現実は変わらない。”変えられない”といったほうが表現が確かかもしれない。これを受け入れる過程で僕は、1人であるということはどういうことなのか考えた。友人がいない、家族がいない、恋人がいない。信頼できる人間がそばにいないというだけで ーいないというだけで、という表現は正しくないのかもしれない、 僕は本当に1人なのだということを実感することができる。どんなICT技術をもってしてもこれは解消できない。 ”他者がいることによって個人は自分の存在を相対化することができる” 学生時代、社会学のテキストで学んだ。今実感している。いざ人に囲まれると時折寂しくなる。笑っている自分が誰だかわからなくなる。お前はなぜ笑っているのだ、と自問する。ぎこちなく笑っていないだろうか。引きつっていないだろうか。  

こうして6年過ごしてみて思うのは、どの局面においてでも「よく生きてこれたな」ということである。なんどもミスを犯し、なんども道を踏み外したが都度、タイミングよく僕にはチャンスが舞い込んできた。生意気なことを言うけれど、23年程度生きていれば、”チャンスが来るタイミング” がなんとなくわかる。待ち方もなんとなくわかる(なんとなくだけど…)。   僕はこの6年間で何かを損なったのだろうか。あるいは何かを得たのかもしれない。得たと思っていなければやっていられない。  眠れば朝が来る。私の部屋は幸い窓が4つある。目をさますと ー相当厚い曇りの日でもない限り、気持ちいい日差しがさんさんと部屋に差し込む。ずっと1人でいるということは、四方八方が防がれた光が差さない部屋に、時計の針を見ることも許されず、ただ1人で居続けるということだと思う。それもまた悪くないと思うけどやっぱり僕は日の目を見たい。少なからずそう思って生きている。 

上を向き続ければ肩が凝る。震災を挟んだ時期に僕は、身長が150cmの女の子と付き合っていたが彼女はいつも上を向いていた。「肩が凝らないの?」と聞くと、「慣れた」とだけ返ってきた。「慣れてるの」ではなく過去形表現の「慣れた」というところが良い。

最近の僕は、ぬるくなったアイスコーヒーでも美味しいと思うようになった。それはアイスコーヒーそのものが美味しいものだったのか、ぬるくなっても美味しいアイスコーヒーを選べるようになったのか、あるいは嗜好的成熟によって”美味しい”と思えるようになったのか。判別できない、どちらでもいいことだけど。