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村上作品、途中経過

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 4月3日までの一日一日を確認するように、短く刻むように本を読んでいる。脇目も振らず本を読んでいる。村上春樹の『騎士団長殺し』だ。

 

この本、事前の予約はしていなかったがあっさりと購入することができた。その一巻めはとりあえず彼女と折半して買った。

私が村上作品を読むのは『ねじまき鳥クロニクル』を読了したのが一月の末だったので、約一ヶ月くらい空いてだろうか。その一ヶ月の間に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『スプートニクの恋人』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『風の歌を聴け』を手に入れたがどれも読んでいない。

ちなみに『風の歌を聴け』は留学した友人に以前借りて読んでいる。手元に置きたくなって買った。 

 

 ここで急に真新しい『騎士団長殺し』を読むのは、それはほかにもこなすべき実生活におけるタスクが山積しているにもかかわらず、脇目も振らず読み進めていくのに後ろめたさを感じるのだが、それを本書はあっさりと振り払ってくれるような物語の進行に魅力がある。なんというか初期・中期・現代と年代という数字的観念ではなく、時期そのものを抽象的に分断することはできないけれど、やはり村上さんのスタイルは少しずつ変化・変遷を見せているらしい。とはいえ「物語」を代弁する者としての村上さんの筆致的なスタイルやプロット、核の部分は保留し続けていると感じさせるのが面白い。これは良く言えば当たり前のことであるが。

 

 先にあげたものは割と「古い」作品の代表作である。村上作品の界隈では、これを読んでおかなければ語れない・・・ような雰囲気を持っている、と勝手に思っていた。私は私自身が意気込んで作ったその「流れ」に少し辟易していてしまったので、ここは思い切って前代未聞的に騒がれる話題の新作に手をつけてみることにした。

正直なことを言うと待っているのを我慢できなくなったのだ。

 

 

 『ねじまき鳥』も比較的「古い」作品でありなおかつ私の中では物語そのものが長かった(1Q84の方が長い?にせよ同じくらいだ)から、その紙たちと面と向かう時間は長かった。それなりに。それゆえにその作品の小説を見開いたときにそこに浮かんだ情景、描写、イメイジが、今でもコンコンと湧き上がってくる。したがって、そのような文脈をとらえ「あれが初期・中期の作品だ」と少しだけ認めることができる。かつての時代設定の多くは私からすると「古い」もので、60年代から80年代を扱っているが、今回、そのイメイジから脱却させる契機として機能するのは、『騎士団長』の物語が現代に時代設定されていることだ。

 

それはとある登場人物 女の

フェイスブックとか、SNS関係は?」(p135)

という問いからも読み取ることができる。

私としては村上作品に「フェイスブック」という字面を見つけるだけでなんとなく違和感を抱かざるを得ないのだけれど、これがまた反射的に「新鮮さ」を生み出していることも指摘できるだろう。

例によって「猫」はまだ出てこないが「愛のないセックス」及び「射精」や「井戸」は登場し、近しい者の「死」も登場する。それらを見つけるだけで私は後頭部がぞわぞわする。

 

 他方で「新しさ」に関することも一応記しておこう。これは私が1Q84のBOOK2を読み終えたときに書いた所感の内容を少なからずかすめる形ですくい上げられていることを喜ばなくてはならない。そのときの「純粋に私は村上さんの描く現代を見てみたいと思」ったりしたことや「ラインとかはどうなるのか」といった意見及び問いは今回の物語『騎士団長』で拾い集められ、また満たされるのだろうか。

 

まあもちろん、全て満たされなくてもいいので少しだけ気にかけておきたい