何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

甘党宣言とビール

 

 

イベントから帰ってきてクタクタになっている。身体中いたるところが糖分を欲していたので、シアトル発のコーヒーチェーン店に駆け込んで、特に甘いものに金を払った。そこで初めてトッピングにも金を払ってみた。私は極度とも言えないが割と甘党の部類なので、そういう類が好きなのである。その冷たい飲み物と食べ物の中間をすすりながら、いくつかのイベントについて思いふけった。

 

これは内定式後のイベント研修について。何千人という数のランナーとその身内が駆けつけ、荒川沿いはいっぱいになった。参加賞の配布に何人迎えても列の人は一向に減る気配がなく、影で私は何度もため息をついた。それから私はオレンジを切って表に出す作業をしていて、副的なチーフが私を、缶ビールを段ボール箱から取り出し一本に分解する作業に回らせた。あまりにも多くのランナーは、疲労回復を目的としたオレンジなんかよりも、喉ごし気分爽快なアサヒスーパードライを選んでいた。やがて、主たるチーフが戻ってきて副的なチーフが私をビール部に配属したことを怒った。ぬかりない指名、配置転換だったにせよ勝手な行動や指示は慎むようにという感じだった。私はその副的なチーフに申し訳なく思った。

無事、無数のランナーは持っていくものは持っていき、帰路に着き始めるところで、撤収作業に回った。朝5時に起き半時間後にはホテルを出て、6時過ぎから作業を始めていたイベントは、16時になってやっとおわりを見せていた。しかしくたくたになりながらも多くのランナーたちが笑顔でビールを飲み干そうとしてるのを見るとこちらも頑張ろうと思えた。

仕事として娯楽産業を支えるということは、自分はタイミングを選べばいつだってそちら側に混ざることができ、なおかつその楽しみ方は運営業務に携わっていればより良いものを熟知しているのである。そして裏方をやるのは、いかに私たちが表世界でしか生きていないかということを痛快に知れる機会であり、それはあるところでは選ばれた、あるいは自分で選ぼうとしなければ見えないものである。

体育会で生きてきてよかったと思えるのも、その一連の作業を俯瞰的にー継続的に通時的に経験してきた積み重ねのよるものだった。

 

私たちは元より、走りたいと思うから走るのであって、その興味が多方向に向かえば、走る人を支えたいという欲求もまた自然なことである。

その走る人を支えたとして見えるよろこびの裏側に、次は私が楽しむ番という切り替えとメリハリがあって、それをうまく出来る人と出来ない人とではせっかく得たチャンスやその積み重ねは水泡に帰してしまう。