何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

「もももももももも」

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 この頃はすこし「哲学」に関心をもってしまって、学校附属の図書館に行っては『もういちど読む山川哲学―ことばと用語』を読みふけっていた。高校の頃、この山川の日本史を使っていた私にとっては使いなじみある。お堅くない文体やデザイン、そしてそのソフトなカバーがお気に入りだった。

 

既に、秋に差し掛かっていて「さむい」と思う人もいるのではないか。その到来はあまりにも急で、わたしも急ぎ足で長袖ものを引っ張り出した。相方は風邪をひいて、熱さまシートをデコにぺったり張った。実際、わたしも引きそうになった。

 

この時期になると思い出すことがある。合唱練習。

 

小学校の時の音楽の先生は、コセキ先生といって、小柄で長い髪は明るく、化粧はやや濃いめの女性だった。歌唱力がとにかくすごくて、コセキ先生は何が何でも「もももももももも」を通じて生徒に歌わせる、という感じだった。「歌を通じてこころを豊かに」とか言っていそうで、あの人は今どうしているのか気になる。まだ現場にいるのだろうか。

 

いまでも忘れない歌唱練習がある。先生が「もももももももも」というと、生徒も繰り返して「もももももももも」と言わなければいけない。その音程や感覚、大きさがよろしくないと指摘され延々と「もももももももも」を言わされた。いちばん初めの授業の出来が悪かったのか「もももももももも」と「もーもー」というだけで一時間が終わったほどだった。「あなたたちのお腹がドカンになったつもりで」というので、私はいつもそれを想像していた。でも、お腹にドカンが入ったらどうなるんだろう、ドカンになるってどうなんだろう。そんなことばっかり考えて身が入らなかった。ところが、しだいに「も」練を続けていくうちに、「お腹がドカンになったつもり」がわかるようになるのが不思議でたまらなかった。

 

   その癖なのか、わたしは無意識に声を出したいというときに「も」を連呼するようになった。どうやら「も」を口にするのが気持ちよくなってしまったようでやっとその効果を認識し始めた。小学校の先生は変な人ばっかりだったが、かくして、強行な彼女の練習法は15年以上たっても身に刻まれているのである。

 

 体育やスポーツを学んでいて、よく「腹圧を高める」というワードが出てくる。それは、お腹を膨らませるということなんだが、これが案外できそうでできない。へっこませることはできても膨らませることができない。「やせたー」とかいうやつである。わたしは3年程度掛かってようやく膨らませられるようになったのだけど、この感覚、どうやら「も」の感じに似ているようである。

 

 そんなところに教育的価値があったことに驚いている。耐震工事を果たした小学校の校舎に思い馳せ、その風景もあの頃とは様変わりして切なくなる。爪痕やペンでぐちゃぐちゃに落書きされた山田耕筰や宮城道雄、シューベルト肖像画もなくなってしまったんだろうか。音楽室。