何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

違和感を覚える

大学に通うようになり、はや3年が経過した。

 

相方が今読んでいる村上さんの『色彩を持たない 多崎つくると、 彼の巡礼の年』という作品は2013年に刊行されたようだ。それを聞き「へぇ、結構近いね」と答えたがよくよく考えてみると2013は大学入学の年だった。その単行本の発刊とわたしの入学年度は単に同等のものに並べられないが、それだけ同じ年を経ているのにその期間の重みにすこしの違和感を覚えてしまう。

一方、冒頭で「はや3年が経過した」と記し、ここはどう書くべきかとすこし思いあぐねた。「4年目になる」と書くのと、期間にタイムラグが生じるのかもしれないと思ったが、伝わらないわけではないだろうと思い割り切った。

そういえば「違和感を覚える」というので思い出す印象的な出来事がある。4月上旬、霞が関の日本プレスセンタービルで開かれた「地方紙セミナー」にわたしは参加した。地元仙台の新聞社が参加するほか、特別講師として池上彰さんが招かれていたからだ。池上さんの『記者になりたい』と題された講演が終わり質疑応答の時間になった。

3番目に指名されたひとりの学生は勢いよく講演内容に対し批判的に、興奮気味に感想や意見、質問を述べた。それに対し池上さんは「まず初めに手直しをしますと、、(間があく)『違和感』というのは『感じる』ものではありません。正しくは『違和感を覚える』です。」と言って場を和ませた。

 

「興奮気味で、批判的な述べ」が池上さんに受け渡されたとき空気が少し重たくなったのを私は感じた。そこで池上さんは彼の「述べ」は良いものだと認め、周囲にその問題の要点をもういちど認識させるべくして丁寧にいじり気味に彼を扱った。記者たる人間が言葉の簡単なミスを犯してはならないというのを付け加えて。*1

 

わたしは池上さんに対し「心酔」しているとまではいかないが、だいぶ心を傾けている風はある。彼の思想や書き方について頷ける部分が多くあるためだ。そんな彼、池上さんが言うのは

1.ジャーナリズムの基本を叩きこまれると言ったら新聞記者だ

2.記者として取材のイロハはいやでも叩き込まれる

3.フリー・ジャーナリストとして活動する上では必要不可欠な基礎基本が学ぶことが出来る

わたしはこの間、ネットの書き込みで「あんな誰にでもわかる解説をして」とか「薄っぺらい思想が丸見えで馬鹿じゃないの」というような、彼の人となりを否定するようなものを見つけてしまった。書き込み主は、およそ連日テレビで池上さんのことをよく見かけるのだろう。わたしには、ただ池上さんを擁護するわけでないが単に「書き込み主は番組の趣旨を理解していない」だけなんだと理解できた。*2

 

そんなことに魅了され、わたしはマスコミを目指した。実際、マスコミの人間として生きる手腕や器量には自信がないが、正直いまだに諦められないでいる。

 

大人の言う「視野を狭めないで、広く見て、頑張れるフィールドを見つけよう」にはすこし納得した。でもその半面で「心の底からやりたいこと」を目指すために犠牲にする時間はほんとうは無駄なのだろうか。「心の底からやりたいこと」と胸を張っている人間は、それだけでその「心の底からやりたいこと」を認めてもらえるはずなのか。

 

 

 

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いまこうして、こんなに悩める時間を得られただけで、大学に来た意義があると感じている。実家に帰ったときには親に感謝し、祖父母や親戚にはキチンと挨拶をしよう。4年前、大学が決まったことやインターハイ*3で決勝6番になったことを報告した時には親戚総出で喜んでくれたのを覚えている。

包み隠さず話し、助言をいただこう。

また、大きく脱線をした。

 

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)
 

 

*1:ここで言う「違和感を感じる」のは「感覚を感じる」という風に言い直せて、それは「二重表現」や「重言」について言及したのだった。

*2:池上さんは現在フリーとして活躍されているが、もとはNHK記者で激動の時代を歩いてきた。

*3:いま岡山で行われている全国高校総体