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はたらくこととはしること。そして言いたいことのゆくえは、、、 【加筆修正】

Athletics 雑談 日常

 仕事と走ること

「仕事をイメージする」となるとどうしてもよくないのが持ち上がります。

僕なりの目線と僕なりの解釈を加えながら「仕事」ということばについて、寄り道をしながらちょっとずつ砕いて触れていきたいと思います。

 

そもそも「仕事」という言葉は本来、物理学からきていますよね。ここで語る「仕事」は主として社会人・職業人が向き合うような業務を表す「仕事」ではありません。

 

物体に一定の力 F [N] を加え続けて、その力の向きに距離 s [m] だけ動かしたとき、その積 F × s を、力が物体にした仕事といいます。量記号に W を用います

 

 

僕は理科総合とスポーツ力学でほんの一齧りしたぐらいで、あまりうまく説明できないのでwikiからことばをお借りしてきました。それをすこしだけ自分の専門分野であるスポーツに置き換えて考えてみますと、仕事は作用する「パワー(Power)」や「仕事量」と関係してくることが分かります。

 

 

筋、骨、関節 -身体的資質-

たとえばヒトが走る時、足で地面を押さなければ始まりません。その時地面に対して発揮されるのが、そのヒトのパワーです。これは進行方向に向かって注ぐエネルギーに対して、身体という「物体」が進む分速度をつけるためには「仕事量」が必要になります。あまり自信がありませんが、なぜボルトが速いのかを簡潔に、専門性をあまり交えずに言いますと、あの大きな身体に進行方向に進ませる分の「パワー」と、それをうまく伝達していくだけの筋や骨、そして関節といった身体的資質を備えているためです。

あれだけ重くて大きな身体を進ませる分の力をもっているということは、進む分だけの必要なエネルギーを身体的資質に備えているということです。あんなスピードを出す分だけ可能にするためには、あのような筋骨隆々な身体が「必然的に」必要になるというわけです。

 

その身体はコレに耐えられるか? 

対して、その仕事量を可能に出来なくなると(耐えることが出来ないと)もちろんのこと人のからだというものは怪我を引き起こします。筋力(パワー)を発揮した仕事量の分だけ、自分にも大きなダメージを与えます。これは反動ともいえます。むかし、ポケモンをやっていた時「はかいこうせん」という強力なこうげきに魅了されたものですが、あれも途轍もない反動を受けています。それと同じように、たとえば坂道を下って走ることは走る者に対してとても大きな運動エネルギーをもたらしてくれますが、その分の負荷を身体に掛けてしまいます。

 

一方で、身体に見合ったエネルギーを活用できるようになると、その仕事率は「経済的だ」と言えます。その「経済的な走り」が最も必要になるのがマラソンです。速く長くそしてきれいに走るためには、いかに物体(身体)そのものを軽くし、尚且つ長くパワーを発揮していけるほどのエネルギー供給装置を強靭に出来るかどうかです。

車に例えるならば、車体に備わっているエンジンがただただ燃費が良ければいいかどうかだけでなく、車体本体の軽さも求められますよね。*1

 

 

脂肪は落とした方がいい?

ですが一概に、身体は軽ければいいわけではありません。基本的に脂肪というのは筋よりも軽くて、筋ほどエネルギー発揮できないということは間違いありません。*2かといって、脂肪は全く要らないかというとそうではありません。脂肪も一種のエネルギー源として働くので、必ずしも要らないというわけではありません。むしろ必要です。

ヒトは、筋量に見合った脂肪を必要最低限、身に着けておければいけないと経験上思っています。

 

実際問題、その見極めが大変困難なので、ヒトは無理に体重を落とそうとします。なので、正しくないダイエット法*3が氾濫します。正しくないやり方を選べば、そのヒトは脂肪を落としたかったのに、いつの間にかとてもとても必要な筋肉そのものも落としてしまうことにつながりかねません。よく見かけるのでほんとうにもったいないです。 

 

 

ちょっとしたまとめ

まず「走り」を簡潔に話すことは簡単なことではありません。その環境を定められる分の条件が必要になります。風、地面などのサーフェスといった環境的な側面、誰と走るかという精神的な側面、そして自分の身体がどんなものか、どんなコンディションであるのか、という身体的な側面、いろいろな要因が複合的に絡み合って、はじめて「走る」という行為が成立します。ウォーキングにせよジョギングにせよ、足が触れるところがどんなところかは考えるようにしましょう。芝生とアスファルトを走るのとでは、怪我のリスクやトレーニング効果に雲泥の差が生まれます。 

 

ここまで書くと、自分の中ではすこしだけすっきりしたようですが、読んでいる人からするとまったくちんぷんかんぷんかもしれません。

とても自慰的な文章で申し訳ありません。

 

 

  ***

 

 

言いたいことのゆくえは、、、 

 

僕はよく、なぜ走るのかを問われます。そのように訊く人は一様に、僕たちが走っている「瞬間」そのものしか見ていません。もちろんその「瞬間」だけにもおおきな喜びや快感が内包されていることもあるのですが、実はそういった内的なものだけではなく、もっと外的でプロセスの要素を多分に含んだ側面にこそ「走る」ことの魅力が隠されているのだと言いたいのです。

 

「走る」とは、人間の本能的な行為です。僕の周りにはたくさん「走る人」がいますが、それは決してトレーニング現場を中心としたフィールド・グラウンドだけじゃない。道端に ーそれは公的な場にー 溢れているのです。自転車だろうが脚だろうが、僕はよく公の道を走ります。そこには、目には見えないゴールを設定して「走っている人」がたくさんいます。通勤通学、約束の場へ向かうために「走る」人もたくさんいます。目に見えようが見えまいが、目的(ゴール)を設定されたところに「走る」という行為そのものは人間が本来として備えている資質と言えるのではないでしょうか。

 

僕からすれば、歩くことも走ることもほぼ同義です。

専門的な定義として、進行時に両足が接地しているかしていないかの違いだけです。移動するための ―もっとも重要といえる― 手段としては、どちらも本能的な行為として違いはないと思います。その者の足がどれだけ地球に対して力(パワー)を与えられるかどうかで速度が決まり、その力(パワー)が大きいか小さいかで走れたり、また跳ぶことが出来ます。

 

 

 

  ****

 

 

 おわりに

またまた、ここまで書いて、私はひとりの社会学の徒として思考停止してしまい、つい看過してしまっていることに気が付いてしまいました。それは、ここまで書いたことを可能とするのは身体の健常者であるということです。これは差別する意味ではなく、あえて区別をし本質を理解しようとするために試していることです。普段から何気なく交わされる会話は私たち(読んでいるあなたであればあなた)の目線でなされます。

これはスポーツの場面ではとても重要な「主観」といいます。

 

自分の身体で生きている以上、自分はその目線でしか物事は語れません。つい、口走ってしまう一言がその相手にとって当てはまらない場合、口走ってしまう一言を理解しえない溝が両者間に生まれます。そこには両者の言い分があり、悪気がなかったと言えばそれまでです。おそらく、咎めようとする方も悪気がない。そして解決するためにそれはただ飲み込むべきかと言われれば、うんとは言えません。ただ、その違和感は私たちの生活世界を支配し、当たり前さを纏った空気として漂っているように見えます。

 

ここでは、その一般的な広い意味の空気について深く掘り下げるつもりはないのですが、僕はいま、ただただ「走ること」をほぼ無意識的に紹介しようとしたばかりに、このような差別的な主張を繰り出してしまった。それは何故かと少し思考しましたら、いま生きている僕の世界が「自分の足で走ることは当たり前だという被差別的な空気をまとっているためだ」という答えを即時的に出しました。

 

では、この「空気」の見過ごしが何につながるかというと、たとえば「パラリンピックを社会的には認めない」という風潮を再生産することにつながります。「パラリンピック=社会悪」という構図の根拠はどこにも見あたらないというのに、人は知らず知らずのうちに「そういった大会」を避けている。僕はそんな姿勢を感じます。*4

常に、自己反省的にいなければ学徒として失格だと感じました。でも、いまの僕にはその空気を打破するためのこれといった打開策を打ち立てることができない。無力感とともに、当たり前な生活世界は理性をも染めてしまうと気がつきました。

 

 

 

国民体育大会は誰もが((スポーツに関わりがなくとも知っています。(よね?)国民体育大会、略して「国体」と並行して行われる障がい者のためのものはなんというかご存知でしょうか。

 

 

「全国障がい者スポーツ大会」略して「〇〇(開催都道府県名)大会」と呼ばれます。

 

2015紀の国わかやま大会 | 第15回全国障害者スポーツ大会 躍動と歓喜、そして絆

 

 

働く理由 99の名言に学ぶシゴト論。

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仕事かぁ~~~。

*1:というよりか、車体の軽さ重さに応じてどれだけ持続的にエンジンを回し続けられるか、ということが燃費の原則かもしれません。

*2:脂肪よりも筋のほうがはるかに重いです

*3:一言で間違いだとは断定できない

*4:このことをある学者は「儀礼的関心」や「儀礼的無関心」ということばで表しています