「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

僕の先生

 
 どうしてか、僕にとっての先生は特徴的なひとが多い。変わり者、というわけじゃなくて...印象強くのこっている、という意味。
 
 
中学1年の頃、野球部の顧問との関わりは薄かったけれど、今でもよくあの話は覚えている。大事なことを教えてくれた。

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その先生は学生だったころ、ひどい呑兵衛で日夜友人と麻雀して飲んでの繰り返しだったそうだ。よく日に灼けていた。どす黒かった。顔が特に黒光りしていて、その所為で白髪が余計に目立つ。でも何処か若々しい。「ダンディ」というワードが似合う男性そのものだった。当時の流行りの言葉で言うと「ちょいワルおやじ」だった。風貌は中肉中背という感じで、昔スポーツをしていたかな...程度な肉付きの普通のおじさん。とてもじゃないがその体格から「大物スラッガー」を彷彿させたりはしない。しかし、ひとたびバットを持つと真剣そのもので表情が変わる。ノックするその背中はかっこよかった。話を戻して、次の日に大事な試合を控えていた先生は、ある時もまた呑兵衛をしてた。序でに麻雀もして、夜更かしという言葉じゃ片付けられないような勝負の日の前日を送っていたらしい。明くる朝、ヘロヘロのまま臨んだその試合その打席で会心の一振り。特大のホームランを放ったらしい。ちなみにその試合は勝った。
 
 
 散々と、自慢げに話したのち先生は、いくらだらしない生活を送っててもやる時やりゃあいいんだよ、という言葉で、お噺をしめた。その話にみんなはよく笑った。今でもその雨の日のミーティングを覚えている。ジメジメとした日、ただでさえ暑苦しい野球部の連中が教室にこぞってミーティングをしていた。集まったのは、雨だったからなのか、なんかの節目の日だったからなのか覚えていない。とにかく、先生が、珍しく仕切って急に話しはじめたってことだけを覚えている。
 
  
 あの時は驚いていたけれど、いま思えばそんなに珍しくない学生時代の送り方なんだろう。時代 は恐ろしくて、移り変わりは早いしその時を生きていくのに    精一杯で、その時その時が本当はどんなだったのか分からないままに徒然なるままに過ごす。若者は飲まない、と上の連中から言われるのも、僕らは嫌で飲んでいないわけじゃない。世間が、「社会」という多数派が煩くいうからそういう風潮になってしまっているだけだ。あの時代がよかったね、はその時代を過ごしている人にしかわからないことだ。そのことを今一度認識しておきたい。僕らは、その時に必要なことの大半を分からないままに無駄に過ごす。もったいない文化だ。でも、それはもう学生である僕たちには通用しない。常に今を「見極め」なければならない。 
 
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 先々月読んだノルウェイの森は、半分以上読んでも少しもその先が予想出来なかった。必要な情報が伝わってこず、何を残していって後に繋げていけばいいのか分別できなかった。しかし、よくもまあ「僕はあまりに多くのことを既に忘れてしまっていた…」と主人公が始めているクセに、途轍もなく長く深い回想に入り浸るので、それが村上春樹ワールドというのかという感じを受ける。そこに初めて足を踏み入れてみて、新しい高揚感を抱いた。
 
 
 主人公も感じているように、この文章には一抹の不安を覚える。どこか哀しくて憂慮する。時は1969、東京オリンピックは終わっている。この頃、学生運動が盛んになったらしい。俗に言う、「全共闘」というものや「東大紛争」というのがあったらしい。しかし僕らはその歴史を知っていない。なんかすごかった時代があったんだ、という具合に、戦国・安土桃山時代には信長が支配していたんだぐらいの印象でいる。でもそれは少し大袈裟か。そうでなくとも、とにかく空想世界というイメージ。僕はこの夏ムラカミのノルウェイの森から沢山のことを得た。引き換えに失ったものも少しあった。それが「今」でよかったと思っている。今読んだからこそ、後につなげられると思っている。これが昨年だとしたら、また違っていたろうし、来年だったら考える余裕そのものがなかったろう。僕は、上・下巻ともに読み終わった後、言葉の強さに気圧されて一時間程ソファから立ち上がることが困難になった。「時代」を描いているこの作者から学ばせてもらうことは沢山あるだろう、しかしその分、僕の体力もたくさん必要になる。