何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

記憶


 

 

 

  「小説」という字は「小さく説く」と読める。そして紛れもなく、小説を生み出すのは、人間だ。技術が発達して、機械が全自動的に物語を構想しくみたてることができたとしても、小説は作られやしないと思う。でも、人工知能はそれを果たしてしまうかもわからない。


とにかく、現代ではイヌもサルもネコもゾウも皆小説を作ることはできない。人間だからこそ出来うること、まさに人間のみぞ持つ能力だと言える。これは、すごい。


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    話は飛んで、僕は最近、紙に説かれている気分を味わえるようになった。(気がしている)わざわざ教えを受けたり願い出たり、そういうんじゃなくて、僕は「説かれ」ている。主に「紙」という媒体を通じて「口説かれ」ている。


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   僕は、これまでに結構な本を手に取ってきたと思っている。でも、その数は、父が、僕を養うようになってから今に至るまでに読んできた冊数を換算したとしても、到底敵わないんだろう。


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    僕が生まれたころ父は、既に二十代の後半で、仕事人さながら「おとな」の時期を突っ走っていた。仕事に追われながら家庭を持ち、僕が2歳の頃、母と僕を連れて山形から宮城へと移住した。何も知らない土地に三人で越してきた。母はとても戸惑っただろう。そんな大変な時期だと言えども、父は本を手に取らなかったことはなかったのではと思う。

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僕が生まれていようがなかろうが、その記憶があろうがなかろうが関係なく、容易く想像がつく。それだけ、父は休みの日に硬い表情で、文字を目で追っていた。その姿が象徴的なしるしとして、僕の記憶の一部分に烙印として押されている。

 

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  実を言うと僕の少年期、あまり父と仲が良くなかった。なので、少年期の父との思い出はあまりおもいだせない。唯一思い出せるとすれば、一度か二度した父とのキャッチボールくらい。「そんなクソボール放ってたらピッチャーにはなれないぞ」と笑顔で罵られた。それを本意と受け取り、悔しくてその翌日から素振りをした。早朝にコツコツとボールは投げられなかったので、懸命に素振りをした。頭上にくるりくるりと舞うように飛ぶコウモリが怖くて10分ももたなかった。


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   しかし、あの日、どんな経緯で公園に行こうとなったのか思い出せない。どちらから切り出してキャッチボールに辿りついたのかが思い出せない。父は、腰が痛いと言いながらキャッチボールの相手をしてくれた。その光景が、まるで一枚のきれいな写真に収められているかのように、脳の内側にペタリと張り付いていることだけ、いま僕は認識できる。

 

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   悲しいくらいに、断片的なかけらがフワフワと浮いている。他方で、認められる少年期の思い出といえば、訳アリで大好きだった幼馴染に5度ほど気持ちを伝えたが、全て敗れ去ってしまったこと、や、夕暮れに染まった教室で友だちと机を囲み、クラスメイトと交換し合うクリスマスカードを丹念に製作したこと、など。あともうひとつ、雨の日に無性にヘッドスライディングがしたくなった僕は泥塗れになった。汚れ帰ってきた僕を母が叱かりつけたこと、とかぐらい。なんだか、思い出せないものを無理やり思い出す作業は、決まって僕を悲しくさせる。

 

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   今はただ、自分が読みたい本を読み、先生から読めと言われるものを読んでいる。もしかすると、側から見れば、怠惰な生活を送っている様だけど、その半面で僕の心の片隅には「父がどんな本を読み生きてきてそして父になっていったのか」ということを「家族」という枠組みを利用しつつ知りたい。偉そうに「社会学」の教科書を開いて言葉をお借りするとすれば、家族というのは、


「(家族は)互いに他者であるところの個人の集合体でしかない。多くの場合、両親は子どもに自らの異性遍歴を明かさないし、子どもは親に対し隠し事をすることで独立した人格であろうとする。家族はけっして一体ではなく、一体であるかのような幻想とともにある集団なのだ。」

<p.22>『社会学をつかむ 有斐閣

 



   開いておいてなんだけど、これをはじめて読んだとき、僕はなんだか悲しい気持ちになった。学問に対して個人的感情を挟むのもどうかと思うけれど、どうしてか、この一文ばかりは僕の胸に響いて、しばらく鳴りやまなかった。