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父は読書家だ。その影響があるのかわからないけれど、今となっては僕も無類の本好きだ。つまりは、その、本の虫である。

 

 

 

探偵ガリレオ」が「ガリレオ」というタイトルで地上波に躍り出たとき、僕は中学2年生だった。中二病にはもってこいなドラマ作品だった。さすがの中学2年生に、天才物理学者の真似事はできなかったけれど、多分に影響を受けたことは間違いない。原作本を2冊、上に書いたものと「予知夢」を即座に購入しては、どちらも1週間と少しで読み切った。原作本は、いくつもの短編からなっていて読みやすかったのを覚えている。いまでも書店に並んでいるところを見かけると、懐かしがって買おうか買わまいか迷うほどだ。それくらいに影響を受けているんだと思う。

 

作者は東野圭吾さんだ。ガリレオシリーズの他にもたくさんの本を執筆しているのだとわかるほどに、巻末には他のオススメ著書紹介がズラリとあったし、東野フェアと称しては、書店の並びに特集が、絶え間なく催されていたことを覚えている。

 

他には、嵐の二宮くんが主演の「プラチナデータ」や、これもドラマ化された「流星の絆」などが代表作に挙げられる。誰もが少なからず一度は目にしたことがある著者だと、僕は勝手に思ってる。ともかく、東野圭吾の作品の多くは実写化されている。

 

またこれは「ガリレオシリーズ」とは関連ないものだけど「パラレルワールドラブストーリー」が僕は好きだった。これを読んだ高校1年生の僕の心は強く傷んだ。どうしてか、強く傷んだので、それ以降1週間、異性と全く口がきけなかった、という訳の分からない思い出もある。どこかへ行ってしまったので、今となって、もう一度買ってみた。(追記20151121)

 

ともかくも、思春期の僕にとって東野圭吾は無くてはならない存在であったし、たとえいろんなところで彼の名前が批判的に用いられていたとしても、僕はあの思い出に上書きをするつもりはない。

 

もっともっとたくさんの作品を読んでいたはずなのに、あまり内容が思い出せないのでなぜだろうと、時々考える。とあるワンシーンは痛烈に印象づいているのに、はじめとか、終わりとか、つまり大事な部分がすっかり抜け落ちてしまっていたりする。おそらくきっと、だけど中学生の頃の僕は読むのに対して集中していなかっただけなんだと思うけど。

 

この頃は、いろいろと縁あって「本」について会話することが多い。おすすめを尋ねられたり、何を読んでいるのか聞かれたりする。けれど、一呼吸置かないと、その質問には答えられない。それは何故か。同時にいろいろと雑多に読んでいるためだと思う。よくない癖なのか今は判別できないけど、はっきりとした弊害が現れ出たときには、止めてみようかと、まず考えようと思う。

 

もうひとつ、おすすめ本について答えるのは結構難しい。テーマやジャンル、どんなものか、どのくらいに必要なのか、が分からないとこちらも何を言っていいか分からなくなってしまう。もちろん、そういう会話から始めるのも楽しいし、苦ではないので時間の無駄と思っていただけなければ、こちらは決して構わない。

 

また、読みたかったらとにかく本のある場所に赴いているといいと僕は思う。僕は表紙、背表紙でこれだ!と決めることは多々あるし、そういう出会いに嬉しく思うことが実はたくさんある。(手元に来るのは必然だったのね、と言わんばかりにね。)

 

本当に、本は沢山ある。人生80年として、生きている間に出会える作品には限りがある。実際に表紙を見て惹かれたり、著者の名前をどこかで見たことがあるという風に、記憶の片隅に残ってたりするものは、何かの縁なのだと意識してしまい、それ以降も意識せざるを得なくなる。とても変な癖だと自覚はしている。

 

 

父は少年の頃から、僕の祖母にあたる母から、本を買うお金だけは惜しまず与えてもらえたと言う。一方で、僕自身は、やすやすと好きな本ばっかりを買える裕福民ではない。けれど、今はとても豊かに楽しく暮らさせてもらえてると思う。本を読むために工夫を凝らしながら、また日々感謝、しながら父に負けないように追いつけ追い越せ精神でページをめくり続けたい。