だれかの手


一寸高い上空から見下ろさないと、多分それはわからない。


高くて青い空には、筋雲が流れていた。今にも消えそうだった。雲は絶え間なく、消えては生まれ、生まれては消える。どうしてそんな単純なことに気がつかなかったんだろう。僕は空にいた。そして彼女も彼も誰も彼もみんな空にいた。なんだか馬鹿げている。そんなことはあってはならない。


羊をめぐる冒険」と「ダンス・ダンス・ダンス」は喪失の物語だ。

主人公はいろんなものを失う。失うだけじゃない。大きかったり、小さかったりする確かな傷跡を残して、みんなその場から「退場」していく。つまり、失いながらにして何かを得るのだ。

彼らはもう、出しゃばったりなんかしない。彼らは、現実世界にぽつりと取り残される主人公の心の中でのみ生きる。それは文字通り生きるのではない。死ながらにして生きるのだ。

 


コレラハソウシツノモノガタリデス」。そういってしまうのはひどく単純なことなのだが、事態はそんなに甘くないし現実はもっと酷い。事は簡単に進まない。

聞き飽きるのだ。村上さんの小説は「喪失」がテーマです、なんていうのは。でもあれは喪失の物語なのです。私も今、こういってしまうほかないだろう。


この物語の中で主人公「僕」を取り巻くみんなは主人公「僕」を媒介として通り過ぎていく。入り口が右側にあったら、出口は左側。出口がもし右側にあるなら、入り口は左側にある。それらは常に、対になっていなければならない。つまり、出入口が同時に存在してはいけないのだ。出口と入口が同時に存在してしまうそれは、雌雄同体のミミズくらいの価値しかない。(ミミズに価値がないといっているのではない。)



私はここまで、自信満々と語っていながら、本質をよくわかっていない。けれども大丈夫だろう。所詮そんなものだ。そうであってほしい、そうであってくれるだろう。

誰かが入ったら誰かは押し出される。僕が入室したら知らない誰かは退室している。いや違う。それはもともと別の部屋に入っているのだ。他人はきちんと部屋にいる。座っていたりTVを見ていたりする。

時々、単なる知人とか、気になっているあの子とか、たまたま連絡をするようになった昔なじみとかが入室してくる。ただ彼らは同じところに長くは留まらない。みんなバラバラに、しかしながら裏でしっかりと合わせているんじゃないかと思わせるようなタイミングで、ぞろぞろと出ていく。彼らは見事に時を運んでいく。彼らは決まって退室するのだ。決まっているのだ。なぜだろう。そこに電話のあるような保留ボタンはない。わずかな留保も許されない。なぜだろう。


(大したものではない)そんな疑問から私は、ひと一人には、満員電車のように都合よくたくさんの人間は収まらない、という結論を見つけ出した。残念なことに収まらなくて、残念ながら見つけてしまった。

それもまた奇妙なことに、グラグラ揺れる満員電車の中で。