「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

いま、タイトルをつけられない

きのう、「流行と消費とジレンマ」だなんてどうしてそんなタイトルをつけたのかわからない。でも昨日書いた内容はそのままになった。今朝の道、誰かが書いた脚本通りに事が進んだ。「信号のない、死角がある交差点」で僕はきれいにぶつかった。いった事がそのままになるんだから面白いよな、と思った。

昨日の記事は夜の力に任せた。そんなに「強烈な」内容のものではなかったけれど、僕なりには勇気を振り絞って書き残した感じがある。

 

 

僕の中にこんな「感じ」がある。君にもそれと同じ「感じ」があるだろう?という共感を求めたいとは思わなかった。もし仮に、朝も夜も暇にならないような街中に暮らしていたなら僕はこうやってブログを続けたりはしなかっただろう。おそらく、きっと。多量の酒を飲み遊び呆けて、やがて挫折し、ぱったりとここを閉じ、あるいは開かなかくなっただろう*1

「僕の押入れにはそんな風にして開かれなくなった本がたくさん積まれてある。時折思い出したように押入れから解放してやることもある。でも本は本さ。ここはそうじゃない。一度開かれなくなったらそれっきりなんだ。」思う。僕はここを開いてからこのかた忘れたことはない。たとえ1週間閉じていても、やがて開く時が巡ってきた。

たぶんオアシスだった。水と緑があふれ、それは活力をもたらした。

 

この頃はめっきり冷えた。やっと愛着が湧いてきたステーキ屋(ほとんどは特製のハンバーグを頼む)*2以外にこの町に期待できることはない。通勤も苦労する。「負けるんじゃない、努力するんだ!皆もそうしてる!」そういう声が聞こえる。「それを遂行できるのは僕じゃない。あなただからできるのだ」と答える。僕は僕の道を行き、あなたはあなたの道を行く。僕のカラダと心は紛れもなく僕固有のものであり、あなたの意思や意見や主張は紛れもなくあなた固有のものだ。そう、僕とは違う。

そういった反論もできなくなるまで挫折したくなかったので、退路を絶とうと決意した。退路は自分で作ったものだから断ち切るのも自分でなければならない*3。ここに住み続けることは(町の人には申し訳ないけれど)つまり苦難であり同時に挫折だ。骨は折れてしまったら、少なくとも半年は自由にできなくなるだろう。ならばどうやって踊れる?どうやって踊り続けられる?踊り続けられない人はどうやってここで生き延びられる?少なくとも屈伸と一夜漬けと週三回の洗濯ができるカラダであるうちは踊り続けなければならないのだ、と思う。

 

 

だから去ることを決めた。

僕にとっては苦しい決断だった。あまりにも波長が合っていなかったから、これは仕方ないと思うしかない。どうしてだろう?どうしてそこまでなじむ事が出来なかったのだろう。詳細は定かではない。詳細を教えてくれるのはたぶん、数ヶ月間過ごし、ここで聴いた(その時に泣いた笑った悲しくなった怒った時に聴いた)曲たちがいずれ(もちろんいつの日かわかることはない)わざわざ引っ張り出して、教えてくれるだろう、と思う。

 

もちろん期待してはいけない。

リズムを取り、足元で細かくタップしながら、肘はしっかりと伸ばして、そう、踊り続けながら(いずれやってくる、と)信じるほかないのだ。僕はここでたくさんの曲を捨て、たくさんの曲を拾った。彼らは、湧いて群がって集まるメロディは僕を介して散らばっていった。よくも悪くもないことだ。入り口をそっと開け、出口のドアを半開きにしながら・・・(この時期はことさら冷えるので早く閉めていただきたい)。その部屋は、あるいはエレベーターはどのくらい広いのだろうか、全くもって想像がつかない。こまかく数値化できないのだ。尺度とモデルという概念がまず存在しないから。

 

「ステイ・チューン」、「トウキョウ・ガール」、「明日も」・・・いい邦楽だって、もちろんたくさんあったよ。

*1:僕がここを続けようが続けまいが周りの人間(詠んでくださっている人)には何も影響は及ばない。まったく及ばない

*2:本当においしい

*3:アクセス権限とユーザーIDとパスワードが必要