リハビリとトレーニングの間で

79パーセントはフィクションだと思ってください

いい店に出合うこと

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「いい店は駅から離れたところにある。」というのが僕の持論である。だいたいにおいて僕は駅から駅へと歩きその道すがら「いい店」に出合う。たまに例外と遭遇する。それは山形にある。ある冬に訪れた時のことを書く。

マドラスチェックかオックスフォードシャツをいつも着ている(少なくとも僕が訪れる際はいつも着ている)店主はおじさんと呼ばれるべくして生きているようなおじさんであり、「おじさん図鑑」というものがあるならば表紙を飾るにふさわしいおじさんだ。いつも口元あたりに微笑みを浮かべていて、目はまっすぐと食器や豆やレコードたちを捉えている。 

「優れたジャズは色々な顔を見せんだす。機嫌のいい女の子がよく晴れた日に見せる顔みたいな。君は…トニー・ベネットチック・コリアは聴くすか?」 ー本当におじさんは「君は」と言った。はじめ僕に向けられているとは気がつかず、目の前にある本に夢中になっていた。耳にはしっかり入っていたのでその言葉を反芻し、噛み砕き、飲み込んだ。顔を上げおじさんの目を見るとおじさんは5cmくらいうなづいた。そこは薄暗くて、ジャズの音がズンズンと胸の下から臍の上あたりをトントントンと小突くようだった。

おじさんの頭上には灯りはなくフロアに5つ、1メートルくらいの間隔で離れて灯っていた。ぶら下がったグラスや並んだブランデーの瓶に反射して、それらもまた灯りのような役割を果たしていた。「レコードは持っていないけど音楽プレーヤーでなら聴きます。」そう答えるとうっすらと白い髭を生やした彼は、「ダメだす。ダメなんだす」と言って、びっしりと棚に詰められたーそれでいて嫌な圧迫感はない レコードを何枚か選び、抜き取った。きれいなカヴァーから薄い円盤をだし、ターンテーブルの上に置いた。「読めねくてもいいから見てごらん。何が好きかは聞かない。僕が聴きたい音を聴かせる。君は僕が聴きたい音を聴く。ただそれだけだす。文句はあっかい?」僕は首を横に振った。ジリジリ、あるいはパチパチといった音が部屋に響き、曲は唐突に始まって僕の耳を捉えた。想像がしづらくて恐縮だけど「両耳を大きな手で掴んだ」という表現の方が確かかもしれない。さっきまでの音とは違って ーといっても具体的にどこが違うかと聴かれれば僕はうなだれるしかないのだが、ジャンジャンと聴かせた。プレイヤーはガチャガチャと適当に音を鳴らしているだけのように思えるが、どうしてかそれが一つのメロディをなしえ、心を震わせる。「感動」という陳腐な単語に収まらない、実にそれが「心を震わせる」という表現が正しいと、僕は思っている。夏の早い時間の朝日が煌々と部屋に注ぎ込むような、あるいは雪のせいで音が「消されてしまった」空間に、ただしんしんと誰にも邪魔をされずそれが降り続くのを見ている時のような気分に似ている。「感動」ではなくただ心地よいでもない、心が仕方なしにプルプルと震えてしまうのだ。僕はそのような瞬間がどうしても好きで、そのためだけに列車を乗り継いでここまでやってくる。今回もそうだ。レースのついでではなく実はこれがメーンであり、そのついでにレースに出に来たと言ってもひょっとすると間違いではない。 

乱雑に演奏している風のそれはまさしく即興を聴かせるものだった。カヴァーの表面にはテイク4と書かれてあった。詳しいことはわからないのだがおそらく、過去のジャズ・プレイヤーたちは即興を何度も演奏し、それを録音していたらしい。そして彼らはそれをどっさりとアルバムに載せる。録音という技術がつい最近できたような時代のことだ。 

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この店は例外中の例外であり、山形駅を東口から出て目の前の交差点を右に進み、一つ目の路地を東側にちょっと入ったところにある。「オクテット」という。親戚にその話をすると、叔父なんかも若い頃は大学や仕事の帰りに「入り浸って」いたという。このような例外に出合うことは街を歩かなければまずないことであり、いい店を見つけることは街を「ただ歩く」ということと同義である。 

画面の中だけでいい店を見つけるのには限界がある。画面からはその店の匂いや佇まいや音はわからない。そういったディテールを上手に伝える優れた書き手がいないでもないが、ーインターネット技術の発展のおかげで今は誰しもが書き手(メディア)になりうる、 そういうものに頼りきりになると自分の中にしっかりと根をおろすことができる店に出合うことができない。引き出しを持つ、増やすという点においては、自分の足で出向いて失敗や成功をしなければ「本当に僕のもの」にはならない。「限界がある」と僕が言うのはそういった点においてである。

常識的な人間は漫画やドラマに描かれるような常連のふるまいをしない、と誰かは言ったが僕もそうでありたいと思う。毎回「はじめまして」というのも疲れるし、かといって「ここは俺の席だぜ」と威張る客でありたくもない。これだけ店と私との距離が離れているとほとんどが「初めまして」のような感じだけど、それがまた新鮮で心地よい。かの「持論」が崩されるためにまた歩く。心を無にして歩けばなんとなく気分が晴れる気がしないでもない。