何を書くか、何を書かないか。

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オペラ セイグッドバイ

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5冊ぐらいの本をザーッと読んでいて、いろんな角度から降りてくるインスピレーションをいっしんに受け止めた。ああ、なんだっけこの歌…。「say goodbye」ってフレーズしかわからん…。とか思いながらページをめくっていると、集中できなくなった。Ann no jyo. 本に付箋を貼り、ここまで読んだという足あとをつけ、アイフォーンを手に取る。オペラっぽいって直感だけを頼りに、検索窓には「opera say goodbye」と入力。するとどうやらこの名曲のは『Time to say goodbye』と言うらしい。なんていい歌なんだ…。

(検索するとき『アマルフィ』っぽいなと思ったんだけれどもこれで間違ったらなんだか恥ずかしいな、と思いやめた。【オペラ セイグッドバイ】だなんて入力している時点で、羞恥心もへったくれもないんだけど。・・・オペラ セイグッドバイで見つけてくれるインターネットは改めてすごいと感じたし、そこで諦めなくてよかったなと思ったよ。)

 

 

本を読んでいるといろんなところからいろんな音楽が流れてくる。その音楽はどこから来ているんだろう?とか、これはなんの音楽だ?とか考えるとプツップツッ…って意識が途切れていって、ボコボコボコと海底深くに。いつの間にか僕は指を本にはさみ、空を見つめてる。

 

 

 

・・・僕は、思考実験というわけじゃないけれどもいつも、その日の体調で「今日は音を流しながら読めるな」とか「今日は音無しの方がいいな」とか点検する。ちなみに昨日は無音がよくて、今日は適度な雑音があった方が読書がはかどる。やっぱり多少の雑音は必要でたいていの場合、静かすぎて何もできなくなることがある。

 

また僕が本にコンディションを合わせることもある。この本はこの音楽が合いそうだ、とか思ったらすぐに探して流す。途中でその音楽が邪魔になってもまず流し続ける。音楽じゃなくて、とにかく読むことが1ミリでも嫌だと感じるまでは続けてみる。そうするとその本と音楽が密にリンクされていくので、たとえ今日忘れたとしても一生忘れるってことはないんだよね。なはず。ふとした時、何かの拍子でそれは蘇ってくる…。・・・「何でもかんでもあれもこれも」の情報収集は一定のラインまでは正しい、だけども一定のラインを超えたらしっかりと忘れてやらなくちゃならない。読書という行為は新しい情報をカラダに取り込むと同時に、何かその時必要のない情報を忘れるために捨てることだと思うね。

いちど習慣化されてしまえば、ちょっとくらい忘れても一切合財失くなってしまうことはないはず。

本読みに没頭するのは、きちんと手元に本があって、足や腕などからだが拘束されていない状態下であることが望ましい。自転車じゃ読めないね。

 

 

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言 寺 on Twitter: "【なぜ読書をしなければいけないのか?】という記事を読んだので読書家の母に聞いてみた話 https://t.co/xzTxIdfs5y"

 

ついでなのでもう1つ。ツイート参照。未だに「なんで読書をするのか」って聞かれるし、タイミングが悪いと、頭がおかしい人だと思われかねないのが現状です。残念ながら今でも。聞かれるたび私は適当に言葉を選び「ページをめくるのが好きだから」とか「この作家が好きだから」とか当たり障りのないことを口にするんだけれども…、本音を言うと、言葉の使い方を間違えたくないからだと思う。ケアレスミスもなくしたい。上司でも先輩でも言葉の使い方を間違えてるのをみるとやっぱり辛い。(これは教授の授業の進め方にも似たようなことが言えて「そんなに授業がつまらないのなら自分がどう話せば面白くなるかを考えろ」みたいなのをどっかで読んで、ウンウンと思って結局4年間とおして意識した。やっぱり面白い授業はいやでも寝ないし、つまらないものは眠くなる。眠くならなくても、他のこと(作業)に気がそれるよね。)

 

間違い探しを習慣化させるためには、おのずから日常的に間違える体験をしないといけない。自分がここでミスを犯しても誰に危害を加えるわけでもないし、また損もしないからね。

 

「この文章おかしくないか」って思考の土台は、誰かが書いたものや自分が書いたものをくりかえし読むことよって作られると思うんだ。・・・おわりに。私にとっての「読書」は、もちろんのこと(先例の)"書を読む"だけども、思考体系のベースとしては"読んだり書いたりすること"が中心でもあるんだな

 

ハードルを上げるだけ上げてきょうは終わり。

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