何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

今後について なるべく疲れないようにゆっくり

新年の挨拶

 

無事、新年を迎えることができました。挨拶が遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

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という感じで、顔も見知らぬ不特定の人に対して (それが生身の人間かさえもわからない感覚で) 「よろしく」の挨拶をいうのはいかがかと思いますが、、、言わないよりは言ったほうが礼儀がなってると思ってしまうのも否めなくて、これが良くも悪くも日本人的「感覚」なのかな。

他の大学でいう教養課程の履修科目のことを、本学では「総合科目」なんて呼んだりしますが、そこで「日本とは何か」という、主に歴史学に関する内容をききまして、その話を少し入れます。

 

私たちは普段から口にしますね。「日本人」って。想像の中で当たり前のように存在する「日本人」って、どこらへんまでの人のことを数えたり指したりするのか。あるいは、どのあたりからは「日本人」に数えられないのだろうか。あなたは考えたことありますか?ふつうないですね。

私の聴いた講義では、たしか「日本人の境界線」に関するペーパーを読んだ上で、「アイヌの人々の声」のようなタイトルの古いビデオを見て、再度、アイヌ人に関する資料を読み、コメントという形で進められました。その時、内容はいまいちピンと来なかったけど、漠然と自分に〈何か〉が届いたように感じた。

「当たり前のことを疑う」のは、学問の基本かもしれませんが、それを自覚的に認知して、コメントに言語化しようとしたのはその日が初めてだったと思います。

 

私たちはしばしば、日本的な○○というし*1、アメリカやイギリスでも、フランスでも押しなべて、多分これこれは〈自国〉的文化だ、と口にするんだと思います。もちろん、その国固有の歴史や文化、そこから形成された誇りやアイデンティティによって程度や差がありますから、一様に同程度だとは断じられません。

あくまでも私がここで触れたいのはそういう程度の話ではない。そういった現象は、決して特別なことではなくて、市民がテーブルをかこんで食事をしながら談話する程度の、超緊急的な最重要事項ではないけれど、日常を温和に送るには欠かせないようなひとつの流れなんだとおもいます。

 

 

学びたいことの整理

さきの問いかけは、ひとたび特別になる時があり、その特別になる時が大きな問題を孕んでいることがあります。

現代では「多文化主義(マルチカルチュラリズム)」や「政治的正しさ(ポリティカルコレクトネス)」などの横文字が、概念を超えてひとり歩きしています。その概念が時に「分断」を生む。この分断を真剣に捉えて流されるような一般大衆のことを批評家の大澤さんは「ジレンマ」で「物わかりのいい素人」と呼んでいましたが、*2本当にそうだなと。(自戒の念も込めて)

 

みな元を辿れば人類という一つの括りなのに、なぜか肌の色はたまた生まれた地域といった「出自」が過剰に攻撃されますね。現に私たちは島国だからとか、他国と隣り合わせになり、緊張感持って国境を意識してこなかったとか、そんな単純なことではないと思いますが、そういうシリアスな体験に慣れていない日本を舞台にして起きるテロは本当に危ないと思う。もう「何千年の歴史を誇る」とか言ってらんないと思うんですよね。*3

少なくとも私たちは、つつがない日常を送るくらいなら、あるいは空港の入国審査官でもなければ、どこからが日本人でどこからが日本人ではないのかなど私たちが考える必要はないんです。

でもそういった生活に満足できない身体慣習が、特に中流層では身についてしまった。彼らのあの過剰反応はどっから湧き出てくるんだろう。不思議です。この話は長くなるので、いつかします。

 

とにかく、、、

先に書いたようなちいさな教室で行われた講義の原体験から、私は日本の社会において「スポーツ」とか「日本代表」のような非定型で曖昧模糊な、ぼわぼわした現象に興味を持つようになりました。スポーツや体育が専門ですので。

その「曖昧」で「ぼわぼわ」したイメージの現象は、いつどこでどうして形成されて(それが時に暴力という形で他者を攻撃しようとも、スポーツの文明化の過程であるとして見過ごされ)どのような形で世に噴き出るのかな、と。イギリスにおけるサッカーの過剰な熱狂の行き先は、フーリガンという暴動によって収束していきます。また今では全世界でみられます。

 

2013年の秋にはオリンピックの開催は決まりました。私は反対ですが、概ね開催されそうです。

「スポーツ」は悪くないのに、政治が絡むから、スポーツまでも汚いものと思われてしまう。政治が汚いといいたくないんですよ。でもね、ちょっとね、森さんはね、。

だから、近代から現代へ移行してきたスポーツは、本当にかわいそう。すごく需要があるんです。スポーツって。すごい力を持ってる。でも現に、その汚い (といったら失礼だけど) スポーツに熱狂する人が沢山います。そして「愛のない批判」を繰り返す人もたくさんいます。でも彼らは、そう繰り返した翌日にはけろっとして、ボールを蹴ったりコートを走り回っていたり日々を謳歌します。そんなことはザラにあるんです。観ることや口を挟むこと、実際に自分がやること、では何分割もされているんですね。これを「多面的なもののスポーツ」とでも呼んでおきましょく。

ぐっと話を戻すと、私はなぜあれほどまでに人はスポーツに熱狂するのかが知りたい。

オリンピックそんなに楽しいか?ワールドカップとか東京マラソンとか、そんなに面白いの?ってところから現場のなまの声をくみ取りたい。これが次の課題です。

3年間ほど、あまりに楽しい回り道しすぎたので、これからは真面目に勉強します。

 

 

 

とりあえず吐露します

昨年を振り返ってみます。

私の2016年は、ブレーンストーミングするように、ただ輪の円周の広がりを気にしないように、できるだけ広範に身近なことから遠いところまで考えるようにしてきました。その中で言語化できそうなことはなるべくメモを、時に感情的になってまでも考えるようにしてきました。

それに昨年は、おそらく過去一番に本やペーパーの活字に目を通した一年だったと思います。ネットを眺める時間や、テレビを視る時間も長かったです。

それと物理的な移動が多かったことに伴って「はじめまして」の挨拶をしたのも一番多かったかなあ。たくさんの出会いがあったんですね。*4

充実していたかどうかはさておき、この事から振り返れるのは、今までよりたくさんインプットした分、この世は、情報が多い!溢れすぎ!ってことを実感したんです。今にはじまったことではないにせよあまりにも多いね。

 

これを単に〈疲弊〉とか〈絶望〉といった言葉に集約できないんですが、これ以上の荒波に揉まれながら、この先を生きていく自信がない。

というのも〈成功体験の情報〉にふれた途端「自分もできるかもしれない」とか「やってみよう」ってある程度ポジティブな人なら考えると思うんですが、実際、残念なことにそれが自分で、なんでも手を出そうとしてしまう。(もちろんケース・バイ・ケース、場合は選びます)ああだこうだやりながらタッチしてみると、キチンとやりきったのは少なくて、でも母数的にやったことは多いから実感的には成功してるよ~、って感じる。でも心は追いつかないんですね。疲れるんだこれが。

 

私たちは、ネット世代やデジタルネイティブとか呼ばれて、その手には慣れている感じがしますが、それより上の世代、ネット黎明期から成熟期、現在に至るまでを生きてきた方々には感銘しますホント。よく疲れないなと。バリバリSNS活用してるのもオジサンおばさん世代だったりするじゃないですか。あれ凄いよね。なので私は彼らを尊敬してるし、是非ともそのバイタリティを煎じて飲ませてほしい。これは、まあいいや。

 

 

 

だから何が言いたいかというと

「机上の空論」と言われるように、ポジティブに書いて、モチベーション高めて机の前だけで〈パフォーマンスを向上〉させるには限界がある。(横文字うるさい)

どれだけ思いがあっても、動機があっても、意欲があっても、ここに書いていくことには限界があるな、と。(もちろんそれだけを信じてやってきているわけではありません、希望の可能性もその反対も表裏一体です)

この場で、私の努力不足と切り捨てることもできます。しかし、ひとえにすべてを切り捨ててしまうほど勿体ないことはない。

なので、ことしは今持ち合わせているものを、可能な限り、リデュース(廃棄)して、リユース(再使用)し、その上でリサイクル(再利用)することを心がけようと思います。

 

なるべく疲れないように、ゆっくりね。

 

 

 

参考サイト

3Rについて

*1:この時点で私もそうしている。でも本当に多い

*2:オーディエンスに居合わせたんで、よく聞けました

*3:他国が慣れているから大丈夫ではないんですが

*4:ここでも書くことが多いと思いますが、多分5分の1くらいしか書き起こせていない