何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

「それは書くに足らないことですよ」2022年1月23日(日)

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日々画面越しにいろんな種類の「発信」に出会う。彼らの姿、あるいは文章という形をとったそれは「何者か」になった様子である。私にとって、とても眩しくみえる。

だれも私の生活の振り返りなど読みはしない。いや、「好きで読みたいと思って読もうとしない」だろうか。私はいろんなエッセーやブログを読む中で「目に留まってしまう」「つい読み進めてしまう」そんな文章を書きたいと思ってきた(もちろんプロのように読ませられるとは毛ほども思っていない)。その動機は今となってはよく分からないし、もはやそれに固執する理由はない。でありながら?いまなにも書けない。ほとんど毎日のように、文章にしたら(個人的には)面白そうなことが頭に浮かぶのだが、これを文章にしよう。さあ、いざ机に向かい、その事がらを少しでも具体的に書こうとすると手が止まった。「それは書くに足らないことですよ」と画面にうっすら見えるのである。ネット広告のポップアップが浮かび上がるように。それを消すためのバッテン印がなかなか見当たらない。

 

だれかが、「書くことは自己実現ではなく、自己療養である」という表現をした 。書くことの効用は何かを成し遂げる達成ではなく、書くことによっていくらかでも正常ではない状態を恢復できる。そのために人は文章を書くのだと。なんの本であったか忘れてしまったので、正確な一文を記すことはできないのだけど、そのような趣旨の文章であった。異常のない状態が正常で多数派なのではなく、異常を抱えていることを認めながら正常であるように振るまうのが、きっと、みんなそうである。私はなんとなく同意した。

昨年の6月から、一人暮らしが再開された。他のだれかにとって意味はなくとも、意味を付与しないといけないのではないかという思いが付きまとった。この出来事を何らかの形で文章にしたためようとして、はや7ヶ月ほどがたった。誰に何を言われるでもない、自分だけの自由な時間ができたはずなのに、どれを一つ取ってもパッとしない。決め込んで何かしようとしても一過性であり、熱意もなく、生活は以前に比べて明らかに精彩を欠いた。

彼女とねことの生活を元に戻したいというのではない。ただ格好が悪いけど後悔が全くないというのもうそではない。自分でも気持ちが悪いが思い出を捨てきれない。成分のよくない澱がたまっていくように、残って消えない。「それもこれも全部、あなた自身の責任による代償なんですよ」という但し書き付きである。ジャズをよく聴いて本をよく読んだ。変わったことといえばドラマをよく見るようになった。一人の部屋で笑う声はいやに響く。尾崎放哉の「咳をしても一人」ってこんなもんなんじゃないかと肌身で実感した。

私は他人と出会うために現代にふさわしいツールを、道理にもとらない形で利活用した。不特定多数の異性と会い、よく話をした。というよりかほとんどの場合、私が積極的に彼女たちの話をきく形であった。多くの女の子はとても、話をよく聞いてほしがっていた。これは私が話を聞くのがうまいという過剰な自意識でなければ、それに紐づくうぬぼれなどでもない、経験に基づいた事実だと思った。中には、私が何者なのかとても気にする人もいて、とことん質問責めされたこともある。親の職業は?家族の血液型は?できるスポーツ、嫌いなスポーツは?初めての異性とのデートはどこへ行った?休みの日はどんなふうに過ごすの?最近一番面白かったことは?他の女の子はどうだった?ワタシハナンバンメ?

今この時期にいえたことでもないが、当時もコロナ流行がひどくてお店を探すのは簡単ではなかった。でもこの街に4年も住んでいると、だめな店に当たらないための嗅覚であったり、ここならやっていて比較的まともであろうみたいなカンが具わっていた。たいがいは店の最寄り駅で待ち合わせをして、店までの道中を歩きながらアイスブレイクや簡単に自己紹介をした。

そのような形の関わりはいろいろ面倒になって放置した期間をふくめても大体5ヶ月くらいだったと思う。面白い人がいた。自分にとても身の丈が合わないルックスの人もいた。ただの飲み友達としてであればこの生活が幾分カラフルになるであろう人もいた。関係を続けたくても連絡が一方的に途絶える人もいた。振り返るとその行いは、控えめにいって「傷口に塩を塗る」までいかなくとも自己療養とは呼べないシロモノだった。それでも両手に収まらない数の他人と出会い、ほぼゼロの状態から話し込んで(興味はそこまでなくとも)相手のことを理解しようと努めたその一連の行為によって自分は「何かをくぐり抜けた感じがした」と言えなくもない。成長したというとちょっとおかしいけれど、経験としては決して損ではなく意義があるものだった(無駄金が一銭も「なかった」とは言い切れないが)。

しかし、その一方でこのような新しい関係性の作り方にのめり込み、そこから抜け出せなくなる人はいるのだろうし、現に、私自身がそのひとりになってしまうことだって充分にありうるのだった。いわば、常にその状態の自分と、想像の中では背中合わせでびくびくしていた。自分の身に何が起きるかなんて分からないから、どこかで感情を制御するたがが外れておかしくなる可能性だってあった。

一人だけ、ほんとうに印象に残っている人がいる。彼女は北海道の出身で、歳は3つほど下。飲み物の中ではバーミヤンの烏龍茶がなにより好き。3姉妹、お母さんも含めて名前に「香」の文字が入ってる(これじゃまるでパフュームじゃないかと思った)。前田裕二が好きで、『人生の勝算』がお気に入り。高校までバドミントンをしていて運動は得意。食品を扱う大手企業の北関東の工場に配属された。土地柄もあり車を持って生活をしている。その配属を結構不服に思っているが、東京に暮らすことに比べると全然マシだと言った。聞いている音楽を迷うことなく途中で変えてしまう癖があった(これは賛成です)。地元からほぼ同時期に上京した彼と足掛け4年ほど付き合ったが、ある事情があって別れた。同棲も解消したが、彼はそのまま埼玉の一都市にあるその部屋に残って住んだ。「きっと別の彼女と住んでるんだろね」と言った。

4回目、向こうの家に行った時だった。私がカレーを作ろうと提案してスーパーに寄った。梅雨もおわりに差し掛かっていたが、じめじめしていた。買い物を済ませて車に乗り込むと彼女は急いでクーラーをつけ、音楽を選曲し(嗜好としてはあいみょんしか被っていなかった)、つるりと白く華奢な左手がサイドブレーキを下げた。 リラックスした状態で前方を見つめ、注意深くハンドルを操作した。

暑いからカレーはやめておこうか、肉じゃがにでもする?でも今から糸こん買うの面倒だし、カレーにしてよ。地味にたのしみだし。そっか、了解。

そんなような会話だった。

もうね、正直いってあっち(実家)に帰りたいの。だからね、来年の春とか、一緒に北海道に来てくれない? あらい君もいまの仕事も辞めてさ。うちで働いてよ。お母さんもきっと、いやゼッタイうれしいよ。どう?

どのような業態・業種であるかの記載は控えておくけれど、親御さんは地元で会社を経営していた。そのエリアは景観がよく、ドラマのロケ地として使われて著名な俳優も頻繁に訪れるのだという。

私は面食らって10秒ほど固まった。その末に出てきた言葉は、「いやあ、冗談でしょ(笑)」。しかし、ハンドルを握る彼女の横顔は、冗談で言ったものではなかった。もう少し正確にいうと、おそらくだが、本気のことを冗談ぽく言うつもりだったけれど、運転中ということもあって思いのほか表情が真剣味を帯びてしまったという感じだった。帰ってきた応えは「わたしは本気だよ?」。

自らが望んだ形とはいえ人事から営業への配置転換があり、色々あって仕事に対するやる気も気力も一時的に損っていた自分は、その一瞬、ほんとうにその未来を考えた。そして言葉を返せないまま車は砂利の敷かれた駐車場へ入った。部屋まで歩いて1分。明日はもっと晴れるらしいよとかカレー作っている間にご飯炊くねとか、当たり障りない話題だけがのぼった。そして私は翌日、東京への帰り路で関係終了の連絡を唐突に受けとって、ほぼ一方的に終わった。

別に、この出来事そのものをドラマチックに称揚したいわけではないが、今でも思う。会って4回目の相手にそんなことを言えるのだろうか?その答えは、うん、場合によっては言えるのだろう、である。自分が彼女のなにかを刺激して、また突き動かしたんだとすれば、苦痛を伴ったことも確かだけれど自分にも生きている価値があるなと思えた。これを人に話すと「それはすごいね」と「誰でもよかったんじゃない」という反応にわかれたが、べつに理解してほしいんじゃない。そのような出会いの中で、そのようなできごとが事実としてあっただけだ。これがこの出会い方で、一番初めにであった人だった。

もう一つだけ思う。その提案に対して「渡りに船を得る」みたいに乗っかったとしても、結果的に、遅かれ早かれ関係は破局を迎えていたような気がしなくもない。ただまあ。私の現状を変えてくれるのではないかという希望的観測および期待から、そのあるかも知れなかった未来に対して私はいささか心躍り、わりに真剣に考えてしまったことは否めない。