何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

2月6日(木)

 

観光やイベント、読んだ本や映画の内容など、インプットした記憶に定着させるためには「アウトプット前提でインプットする」ことが有効だと言われている。「この後書かなければならない」と自らにミッションを課すことで、心理的プレッシャーによるノルアドレナリンが分泌されて集中力が高まるのだと言う。編集部時代にも「普段の会話から、これは何かに書けそう、というポイントを探しながら過ごしなさい」と言われてきた。うん。『インプット大全』の著者・精神科医の樺澤氏も同じようなことを書いている。うん。

普段はあまりこういう本は買わないのだけど、物は試しと思って購読した。わたしは個人的にこういうのを「まとめて一気読みビジネス書」と呼んでいる。この本の優れているところは、インプットとは何をインプットというのか、インプットはどんな環境で行われるべきか、ひいてはインプットは、どのような方法で行えば効率的に記憶に定着させられるか。中身は、似た内容を繰り返しているようだけど、具体的に教えてくれる。人は「インプットと同時に、アウトプットが大事」と簡単に言ってしまうものだけど。

これはまた『言語化力』みたいなことだけど、言葉は言葉にしてみないと実体がどうであるかわからない。頭のなかで考えていることや文字として書くことは違うものだと僕は常々思っており、言葉にしないとそれを把握することができない。こうやって書いている間にも、本当に書きたいことの何パーセントかは書けず、言語化することを続けなければ本当に書きたいことは「申し送り」される。高校3年間、大学4年間陸上競技に取り組んできて、毎日のトレーニングメニューやそれに関する感想、考えを指を動かしてノートに書きためてきた。今もそれが手元にあるけど、それが血肉となって自分の中に残っている経験が教えてくれる。高校の恩師が言った「練習日誌が財産になる」とはこのことだと思う。

 

少し話が変わって。大学時代、「あいつは自分の生活に関する何でもかんでもをツイッターに書いてるんだよ。俺はあいつの生活を見たいわけじゃない」と言う先輩がいて、その時は確かにそうだよなと思った。でも上記に即せば、その何でもかんでもツイッターに書いてしまう人はもしかすると、(多少柔らかめに言って)身の回りに起こったことを自分なりに記憶にとどめるためにアウトプットしていたのであって、ここで勝手なのは言うまでもなくその「生活」を一方的に見ている先輩の方だった。人のアウトプットに対して異議申し立てをできる必然性はどこにも見当たらない。見たくなければ見なければいい。

もちろん、その投稿が思想的に組織の活動によくない影響をおよぼすものであったらまだしも、その生活の何でもかんでもをアウトプットせざる得ない人は、ただ自分を見せているだけである。そこにその人の立場や身分は関係なく、ただお見せしているだけではないか、と僕は今となって思う。見たくなければ非表示にすればいい。

なぜそのようなことを思い当たったかというと、ひょんなことがきっかけで中学3年の時に始めたブログが、結局のところ25歳の今になっても細々と続いているからだ*1。わたしは生活の全てを晒そうという気はさらさら無いけれど、出来事一つ書いておくと「あの時にはこんなことがあった。こんなことを考えていた」と振り返ることができる。もちろん中には面白くない反応もあったけど、それは自分に対して何の利益もなかった。

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これからの働き方について誰かに相談したくて、過去の取材でとてもお世話になった男性Oさんと話した。この方はわたしより年齢が40歳近く上だけど、こんな若造に対してでも物腰柔らかく接してくださる。

そこで「アウトプット」の話になり、「芸能人でもない一般人*2はブログを書くべきではない。前者の場合は、大多数の人がその生活を知りたがっているから書くことに関して需要がある。一般人はなんでも思ったこと感じたこと考えたことはフェイスブックに書くべき」と言われた。

一瞬、大学の先輩が言うアレと同じかと思ったけど、これは別で、一理あると思った。と言うのも、やはり見てくれる人は見ていて、リアクションがわかりやすい。コメントかボタンかメッセージで送ることもできる。そのリアクションボタンの機能がやや形骸化しつつあったり*3、本来の意味と違った形で使われるけど、それは仕方ないとして即時的であるし、「友達」や「フォローされている」であれば、否応無しに見てもらえる。だから、これまで書いてきたことは、ブログにも書きつつフェイスブックにも投稿しようと思う。何度も充実アピールとか自慢で嫉妬を買うと言うのはもう時代遅れだとも思う。

反対に、角が立ちそうなことはブログにだけ書いたり、また書かなかったりする。『読みたいことを、書けばいい。』の中で、田中泰延さんが再三言っているように、「『書く』ということは本来的に自由だ。しかし、誰もあなたの「心象と事象が混じって生じたエッセー風のそれ」を読みたがっていないということをわきまえればよい」と言うのが、とても腑に落ちる。

 

*1:10年近く続けていると変な人がコメントしてきたり、それなりに面白いことがあった

*2:そのような表現ではなかったが、ここでは一時的に「一般人」と使う

*3:いいね、超いいね、悲しいね、すごいね、ウケるね以外にも、リアクションのバリエーションはやはりあるものなので仕方ない