何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

3月11日(水)

 

3月11日になりました。あれから9年が経ちました。

年も経つと色々なことが”起こる”ものですね。いろいろ。思ったことを書きました。僕にとって3月11日は意味がある日です。身近な人を亡くしたわけではなく、僕自身当時住んでいた家を失ったわけでもない。僕自身が生活が不自由になるような体験もしていません。むしろその日を境に(と言っても良いくらい)僕は強くなりました。それは、何か一言では言えない、特別な日です。取り留めなくて、何度も書き直ししているわけではありませんが、話したいままに書きました。生活は、分断されることなんてなくてずっと、繋がっているものだと思うんです。

 

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僕はいま東京で働いていて、転職を1度した。高校、学生時代を通して何人かの女の子と”付き合い”、今は佐藤さんと暮らしている。そうこうして、もう1年が経とうとしている。今のところねこと平穏に暮らしている。大学を卒業しても相変わらず陸上競技は好きで、ときどき走っている。

空いた時間には僕が小学生の頃に活躍したプロ野球選手のプレー動画をユーチューブで見ている。上原浩治とか松坂大輔とか。2日に1度はビールを飲み、週に1度はパスタを茹でる。フライパンで茹でるコツはパスタの束を半分に折り、麺同士がくっつかないように茹で始めは菜箸で麺を揺らすことだ。その他は佐藤さん家のお米を食べている。

Amazonプライムビデオを使って「東京ラブストーリー」(1991)を全話観た。佐藤さんは何度も最終話を見て、何度も泣いている。アバウト・タイムは2回観た。

年に2、3度はマラソン大会を走っている。レース残り5kmになる時はいつも「なんでこんなことをしているんだろう」と思うのに、走り終えるとまたレースをさがし、そこに安くないエントリー費を払うのだ。去年の10月に開かれる予定だった東北みやぎ復興マラソンと今月同じく予定されていた静岡マラソンはどちらも中止になってしまい(台風とウイルス感染対策のため)、25000円くらいが何処かへと飛んで行った。でも仕方ないのだ。

幼稚園、小、中、高の友達がいるので、こっちでもあっている。一緒に焼肉を食べたり、クラフトビールを飲んだりしている。ほとんど仕事の話になるけど、悪くない。

カレーライスには福神漬けを、牛丼には紅生姜を、豚汁には七味をつけるようになった。いろんな人の影響を受けて、今の自分ができていると思う。話し方や仕草、立ち格好や表情。すべて、自分由来オリジナルなものなんてない。人は、関わる誰かのそれをちょっとずつつまみ食いして”できている”のだと思っている。これは、育ちがどうとかそういう話ではない。

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こんな風に生活していることは、地震が起きた高1の春には想像もつかなかった。それはそうだろう。あたりまえだ。小学1年生の時に、高校1年生の生活を想像できたわけなかった。中3の冬に僕は「私立は受けてはダメ」という親の冗談を間にうけ(お金がもったいないので半分本気だったろう)、応募しなかった。その間、4ヶ月だけ塾に通い、模試の偏差値を15ほど上げ、結果的に仙台市内の普通学校に通った。自称進学校でもない何もかも平凡だと思える学校だった(女子の制服は可愛いと有名だったが真偽はどうなのか)。だがそこには、学生時代に800mで日本記録を出したことがある女性の先生がいて、陸上部の顧問をしていたのでそこで教えを請うた。偶然が過ぎる。そして、今でもお世話になり続けている。

今でもあの石巻陸上競技場の風景をありありと思い出せる。ジリジリと暑くて、大きな木の日陰は嫌に涼しかった。そこで高校生だけではなく、大学生や社会人も出ていた。僕はその人たちが誰だか知らなかった。僕がその時出した自己ベストくらいのタイムだったので、僕から比べると相当速かったと思う。250mまでその彼についていき、僕は”自分に息がある”ことに気がついた。”抜ける”と思った。直線に入る時、流し目で右側(つまりアウトレーンだ)には誰もいなかった。左側にも誰もいなかった。そこはただ、自分が一人で走っているような感覚で、ひたすらまっすぐ、懸命に、腕を振った。いや。懸命ではなかったような気がする。ただ自然と、腕を真下に振り下ろし、足が自然に前に出て、身体が流れるように進むようだった。中3の時に県で5番目だった僕が、高1の5月にそれまでのパーソナルベストを一度に約3秒更新して、負けてきたライバルたちを一気に抜いた。誰からも「今まで、何をしていたの?」と言われた。こうして僕の中に、「陸上競技」が入ってきた。幹となる部分にガシッと入り込み、しっかりと根を張っていて、今もここにある。50秒64という記録は特別速くはないかもしれないけれど、これがスタートで、結果として22歳まで競技的に、専門的に取り組むようになった確固たるきっかけだ。

 

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あの時、TVやSNSで日きりなしに言われた「忘れられることが一番怖いのです」という言葉の意味がよくわからなかった。忘れるわけないだろう。誰が忘れるのだ? と。でも僕は、その意味は大人になるにつれてわかるような気がしてしまった。例えば日常の大方を従業員として働くことに費やす人は、目の前にあるものを処理するのに忙殺されると”ずっと”考えていられなくなる。これは厳密には、忘れるではない。考えることを一時中断していることなのだけど、他者から見るとそれは”忘れている”ことになるのではないかと思う。あくまで、僕は。

しかし、だ。たとえ日常でその”話題”が出なくても、”あの日”を思い出す瞬間が何度もある。例えばそれは、不意に観た時計が2時46分を示していたり。たまたま観たニュース中継が気仙沼(あるいは仙台だったり)と繋いだものだったり。サンドウィッチマンが元気にTVに出ていることだったり。フェイスブックで中高の友達の投稿(震災とはもちお論何も関係ない、日常が映された幸せなもの)を見ることだったり。自信を持って言えないけれど、僕は忘れていないのだ。

 

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