何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

11月2日(土)

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久しぶりにエントリを書くまで、僕の周りで何も起こらなかったわけでなかった。ただ書けなかった。「書くに足ることがなかった」とまで言えないけど、僕にとっても色々なことが立て続けに起こった数ヶ月だった。季節でいうと、夏から秋の暮れにかけてだった。彼らは、どこからかやってきたと思ったら「サーっと」去っていき、また、どこかで見たことがあるけれど知らない新しい顔が「どうも」ってやってくる。

2日前、木曜日のことだ。ハロウィンだった。渋谷の宮崎料理屋でビールや冷酒をたくさん身体にとり入れた。店を出て、街中の猥雑な人ごみを抜けて京王井の頭線・渋谷駅に着く。何とかして電車に乗り込んだ時、「意識」は僕の後頭部から右斜め上40センチくらいのところに浮かんでいた。ぷかぷか、そんな気分だった。

東京の東っ側、墨田区の方に引っ越す前、今年の3月までこの沿線上に僕は住んでいた。いま住んでいる自宅の最寄駅の2こ手前にある。その日は「意識」がどこかに離れないうちに帰りたかった。でも、どうしてかその前に住んでいた最寄りの駅で降りた。ほぼ無意識だった。

どうせ降りたのだから、ここに住んでいた時よく足を運んだカフェバーを一目見ようと駅の階段を降りた。その店は、中は明るかったが、ドアに「クローズ」の看板がかかっていた。いつも寡黙に本を読みながらタバコを吸う若い店主は、外に突っ立っていた僕に気づいたようで、他の人とテーブルや椅子を動かしながらよそよそしく何度かお辞儀をした。「ごめんね」とでも言いたげな様子だった。

そこには月2回くらいのペースで行った。通ったとまでは言わないかもしらない。暗い部屋に1人でいることに耐えられず、小銭と本とラップトップコンピューターを抱えてかけ込んだ。クラシック、オルタナロック、ジャズ、古いポップ、ラテンミュージック、ボサノバなどの雑多な音楽が流れていた。そこではよく泡たっぷりのカフェラテを頼んだ。粉の三温糖が添えられて自分で甘さを調節できた。僕は液体には入れず、よくそれをなめていた。店は、音がけっこう大きくて僕は好きだった。恋人ができてから全く行かなくなった、その店が妙に懐かしい。

23時15分。あてがなくなったので、かつての生活圏内をぐるっと歩いてみた。住んでいた部屋を見たい気持ちに駆られてその建物の前に立つと、そこは僕がかつて住んでいた時よりも生活感の溢れた一室になっていた。すりガラスの向こうには服がかけられ、玄関のガラスからは小さい明かりが外に漏れ出ていた。あんなところに住むのはおそらく男性だろう。その時の気分は一言にまとめられない。

おととしの10月に入居した時、敷いたログが部屋のおおきさに対してちいさくて、足りていないフローリングの部分は、誰に頼んだわけでもないのにキンキンに冷えていた。秋冬春はまず素足ではたっていられなかった。大きな台風でベランダにある隣の部屋との「しきり」がぶっ壊れて、その破片は僕が引っ越すまで僕の部屋側に散らばっていた。そのベランダで隣のオヤジと偶然顔を合わせた時「わるいね」って顔をして、彼はその直後にぴしゃりと戸を閉めた。ドアの小さい隙間からアリが入ってきたこともあった。時々、ベランダから一直線にアリが向かってやってくるのをよく眺めていたものだった。ようこそ、という思いもあったが、僕は心を鬼にして駆除するためのスケルトンの緑色の小さいケースを窓際に置いた。部屋の中で彼らを見なくなった。ごめんね。休日や平日の夜遅くにはビートルズや名前もよく知らないクラブミュージックをよくかけた。けっこうな音量にしたものだから、もしかすると隣のオヤジにも聞こえていたかもしれない。ごめんね。休日の朝にはさんさんと外の日差しを部屋へ受け入れた。冬の日中は暖房をつけず毛布にくるまりながら、これまたキンキンに冷えたビールを片手にジェイコムのチャンネルで「東京ラブストーリー」や3年前くらいの準新作もの映画を見た。その部屋には男友達は1人、女の子は2人入れた。今の恋人は含んでいない。今でも、住んでいた頃のようすを今でもありありと思い出せる。しかしまあ、何か大事件があったとかではないのに、そのイメージはずっと淀んでいる気がする。下北沢までも歩いて15分で行けて、渋谷まで各駅停車の電車で9分というすばらしい立地だった。そこに勝手に優越感を感じていたのも確かだった。ただ、情報が多すぎた。『風の歌を聴け』を引用するならば「頭の上で悪い風が吹いているのよ」的な感じか。とまあ、いいとか悪いとかではなくて、確かにその経験はいまの自分を作っているように思う。あと数年後もまた、ふとこうして思い出すのかな。