何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

いい店に出合うこと

「いい店は駅から離れたところにある」というのが僕の持論です。だいたい僕は駅から駅へと歩き、その道すがらで「いい店」に出合います。たまに例外と遭遇するのだけどそれが山形にあります。ある冬に訪れた時のことを書きます。

 

 

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マドラスチェックかオックスフォードシャツをいつも着ている(少なくとも僕が訪れる際はいつも着ている)店主は、「おじさん」と呼ばれるべくして生きているような「おじさん」であり、もし「おじさん図鑑」というものが出版されるのであれば表紙を飾るのにふさわしい「おじさん」だと思っている。いつも口元あたりにほほえみを浮かべていて、目はまっすぐと食器や豆やレコードたちを捉えている。 

「優れたジャズは色々な顔を見せんだす。機嫌のいい女の子がよく晴れた日に見せる顔みたいな。君は…トニー・ベネットチック・コリアは聴くすか?」本当におじさんは「君は」と言った。はじめ僕に向けられているとはおもわず、僕は目の前にある本に夢中になっていた。耳にはしっかり入っていたのでその言葉を飲み込み、反芻し顔を上げておじさんの目を見るとおじさんは5cmくらい縦にうなづいた。そこは薄暗くて、ジャズの音がズンズンと胸の下から臍の上あたりをトントントン・・・と小突くようなところだった。

おじさんの頭上には灯りはなくフロアに5つ、1メートルくらいの間隔で灯っていた。ぶら下がったグラスや並んだブランデーの瓶に反射して、それらもまた灯りのような役割を果たしていた。「レコードは持っていないけど音楽プレーヤーでなら聴きます」そう答えるとうっすらと白い髭を生やした彼は、「ダメだす。ダメなんだす」と言って、びっしりと棚に詰められたーそれでいて嫌な圧迫感はない レコードを何枚か選び、抜き取った。きれいなカヴァーから薄い円盤をだし、ターンテーブルの上に置いた。英語がびっしり書かれたカヴァーを僕に手渡した。「読めねくてもいいから見てごらん。何が好きかは聞かない。僕が聴きたい音を聴かせる。君は僕が聴きたい音を聴く。ただそれだけだす。文句はあっかい?」僕は首を横に振った。

ジリジリ、パチパチといった音が部屋に響き、曲は唐突に始まって僕の耳を捉えた。想像してもらいづらくて恐縮だけど「大きな手で両耳を掴んだ」という表現が適しているかもしれない。さっきまでの音とは違って ーといっても具体的にどこが違うかと聴かれれば僕はうなだれるしかないのだが、ジャンジャンと聴かせた。プレイヤーはガチャガチャと適当に音を鳴らしているだけのように思えるが、どうしてかそれが一つのメロディをなしえ、また聴いているものの心を震わせた。

「感動」という陳腐な単語に収まらない、実にそれが「心を震わせる」という表現が正しいと、僕は思った。夏の早い時間の朝日が煌々と部屋に注ぎ込むところを見ているような、あるいは雪のせいで音が「消されてしまった」空間に、ただしんしんと誰にも邪魔をされずそれが降り続くのを見ている時のような気分に似ていた。「感動」ではなくただ「心地よい」でもない、心が仕方なしにプルプルと震えてしまうのだ。

僕はそのような瞬間がどうしても好きで、そのためだけに列車を乗り継いでここまでやってきていた。今回も、レースのついでではなく実はこれがメーンだと思っており、ついでにレースに出にきたと言ってもひょっとすると間違いではない。 

乱雑に演奏している風のそれはまさしくインプロヴィゼーション(即興)を聴かせるものだった。カヴァーの表面にはテイク4と書かれてあった。詳しいことはわからないのだがおそらく過去のプレイヤーたちは即興を何度も演奏し(たまたまできた、という方が確かかもしれない)、それを録音していた。彼らはそれをどっさりとアルバムに載せる。「録音」という技術ができたばっかりの時代のことだ。 

 

 

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この店は例外中の例外であり、山形駅東口を出て目の前の交差点を右に進み、一つ目の路地を左にちょっと入ったところにある。「オクテット」という。親戚にその話をすると、叔父なんかは大学や仕事の帰りに行き、「入り浸って」いたという。このような例外に出合うことは、街を無目的に歩かなければまず起こり得ないことだと思う。いい店を見つけようとする作業は、街を「ただ無目的に歩く」ことと同義である。 

 

画面の中だけでいい店を見つけるのには限界がある。画面からその店の匂い、佇まい、音はわからない。そういったディテールをウエブページの上で上手に伝える優れた書き手がいないでもないが(インターネット技術の発展のおかげで今は誰しもが書き手(メディア)になりうる)それに頼りきりになると、自分の中にしっかりと根をおろすことができる店に出合うことができない。引き出しを持つ、増やすという点においては、まず間違いなく自分の足で出向いて色々な街の姿(の特に路地裏)を見なければならない。「限界がある」と書いたのはそういった点においてである。

常識的な人間は漫画やドラマに描かれるような「常連のふるまい」をしない、と誰かは言ったが僕もそうでありたいと思う。毎回「はじめまして」というのも疲れるし、かといって「ここは俺の席だぜ」と威張る客でありたくもない。これだけ店と私との距離が離れているとほとんどが「初めまして」のような感じだけど、それがまた新鮮で心地よい。さきに書いた「持論」の例外をみつけるためにまた歩きます。無目的に歩けばなんとなく気分が晴れる気がしないでもない。