何を書くか、何を書かないか。

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「僕らはまだ知らないだけ」

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 「若いうちは遊べ」という。とても訴求力のある言葉だと思う。先輩は後輩に向かって「私はいま思えば若い頃遊べなかったから」と、後悔の念を胸に言っているのだろうが、この「遊ぶ」という言葉がとても抽象的で、そのまま受け取ることはできない。

 もし、僕にとっての「若いうちにしかできないこと」円グラフがあったとしたら、半分は陸上競技(及びスポーツや運動)が占めるだろう。社会人2年目になり、同じようで同じでない日常を過ごす中でどれくらい実際的に遊べるのか、あるいは自堕落にだらしなく過ごせるのかを体験した。人は怠けようと思ったらどこまでも怠けられるだろうことがわかった。自明のことである。

 だけど胸のどこかでつっかえて「ずっと遊んでいよう、あはは」なんて意欲は失われる。それはいつの間にかなくなっている。これは例えば、別に飲みたいと思わないのに水をガブガブと飲んでいるような気分に近いと思う。大抵の場合、そういえば俺は水なんて飲みたくなかったんだ、と途中で気づく。なんとなく浸かり、気づいたらお風呂の湯が冷たくなっていることにも似たようなことが言えると思う。

 

  初対面の方(特に女性です)の「休みの日は何をして過ごしているのか?」という質問に答えが詰まる。「俺は休みの日に何をして過ごしているんだろう?」とその度に考えていた。人と会う以外は、平日に散らかってしまう部屋を片付けたり、ワイシャツにアイロンをかけています。と言うようにしている。彼らは概ねそれを信じてくれる(確かにそれは嘘ではない)。走るとか本屋に行くとか、本を読むとか映画を見るとかそう言ってもいいのだが、それらの細かいところをベラベラ説明するのがなんだか面倒になってしまう。その人に対して一体どんな理由で、走ったり読んだり観たりする魅力を語ればいいというのだろう?

 

 確かに女の子と遊びたい。ずっと映画を観ていたい。好きなだけ本屋にいて雑誌や本や筆記用具を眺めていたい。お金があるなら美術館や歌舞座に行ったり、新国立劇場でオペラを観たい。買うでもなくいいスーツを採寸してもらいたい。車を借りてドライブがてら富士山まで行き足で登ったり、ビールを飲みながらあてもなくビーチでぼーっとしていたい。耳が痛くなるまでジャズ喫茶に耳が入り浸りたい。テーマパークはそれなりに興味がないので省くけど、エンターテインメントの流行りモノを逐一チェックして回りたい(スヌーピーミュージアムくらいしか思い浮かばないのだけど)。

  おそらく遊び方を知らないわけではないと思う(確かに友達は少ないけれど)。いくらでも出てくる。僕だって好きで「休日は部屋の片付けをして、ワイシャツにアイロンをかけています」なんて言いたいわけじゃない。でも彼らが「へえ、そうですか」と納得してしまうから仕方なしに本を読んだりコーヒーを飲んでいます、という。「それだけ?」と聞かれそうだけど、だいたい他の話題に流れる。この話題はそもそもところ無益なのである。

 

 かたやそんなに余裕のない日常で娯楽や趣味として「遊ぶ」ことは片手間でもできないが、僕にとっての「遊び」は街をぶらぶら歩くこともストライクゾーンになるので(昔から広いねと言われる)、なにも、全部一気にやらなくていいんじゃないかと僕は思う。そもそも僕は「もし明日死ぬとしたら」的な発想が結構苦手で(確かにその日一日の生を全うせず生きること自体に賛成はしないのだけれども、それはともかく)周りを常に巻き込んでまで「日常的な学び」を犠牲にし、エンターテインメントに傾くのは性格的に難があると考える。

 

 そんなに自慢できたものではないけれど僕が大学で学んできたことは結構大きいし有益なものだった。一人暮らしも6年目になり(気づいたらそんなにか、やばい)そこそこ一人でいる時間が長くなり多くなり、若いうちに(まだ新鮮なうちに、記憶が鮮明なうちに)何かの形で還元すべきである、と考えるようになった。

 ある飲み会の場で、40代くらいの男性に「短距離走の練習を教えてよ」と言われ、その人とその人の友人とトレーニングした。ほとんど私からの一方通行になったが大学までやってきた経験をもとに、動きづくりの運動を一緒にやったりした。その人たちの元々の動きはよく知らなかったが始めと途中、終わり際とでは全く動きが変化していて、それが僕にとって純粋に嬉しかった。僕自身もスピードを出せる喜びを思い出して気分が高揚していたということもあったが、とにかく何度も褒めた。 

 

 「人は変われる」ではないがそういったキャッチコピーの本質は「僕らはまだ知らないだけ」にあると思う。少なからぬ可能性に対してかけることをしない「諦める」とは違う。ただ「知らないだけ」である。やってみて気づきがあったらそれで十分である。なにもその場でうまくできる必要はないと僕は思う。すぐに再現し、自分のものにできる人はごく限られた一部の人間だからだ。僕はそういう人を実際見てきたし、どうして可能にできるのかよく話して聴くように努めた。大切なのは「どこが変化しているのか(筋に負荷がかかるなど)をチクイチ感じ取ること」だと言った。

 今日与えた負荷(影響)は明日また目を覚ますかもしれない、面倒臭がらずに似たようなことを自分なりにやってみたら、次の週もひょっこり起きるかもしれない。電気回路を繋げ、そのスイッチを入れるか入れないか、のようなものだと想像する。「なにが失敗か考えず、とにかくやってみましょう」とだけ繰り返し、繰り返し伝えた。それだけは覚えておいてほしかったからだ。

 

 「スポーツが仕事」(企業の広告塔的な役割として勤める人)はさぞ苦しいだろうと思う。僕は時に無用な心配をするけれど、心の底から彼らを尊敬するし応援している。本質的に彼らはかっこいい。ヒーローである。翻って「遊ぶ」というのは根源的な意味で「スポーツ」に通じている。労働からの解放が「スポーツ」である。この仕事に就き、いろいろな人を見た。私の知らないところにまだまだたくさんいるだろうが、それでも様々な「労働から解放されて走る」人を見た。これが本質だな、と思う。だから僕も自分の身体のごく自然的な形で改造できるように時間を注ぎたいと思う。本来私たちと彼らの間には溝なんて(要ら)なくて、「共存」というよりもどちらかといえば「枠」という「枠」が無くなり、ソフトはどれもいっしょだよと理解しあえる共有スペースが必要なのではあるまいか。

 

 お酒は好きだがのんだくれて20代が終わるなんて絶対に嫌だ。それもありかな、と思って一日じゅうぶんに飲めばいいじゃないか。どうせ一日飲めば忘れることなんだし。