アライマサノリのブログ

79パーセントはフィクションだと思ってください

意味を見出しすぎなのか

新しい土地。お金がない。カーテンがない。おまわりさんふくめ、地域の人がちょっと怖くなる。読んでいて、ちょっとタイムリーすぎて、共感できて、そんなことが私にもあったなあって、ついリアクションしてしまった。「まじか」

 

giveus.hateblo.jp

 

外は暖かいのに部屋の中のMacBookがあまりにも冷たい。でも本当に3月が終わってほしくない。昨年の今頃はもっと寒かったように思う。周りに人がたくさんいた大学からこっそりさいたまへと逃亡したからだったか。よく考えればこっちだってよく人がいる。でも彼ら、人の性質が全く違う。その土地ごとに人の性質が変わる。いろんな駅で降りていろんな人を見た。いろんな人はいろんな店をやり、いろんな商店街を賑わせ、いろんな子どもを遊ばせ、いろんな生き方をしていた。引越したてのカーテンのない部屋で1人震えながら、常に誰かにまなざされているのではないかと被害妄想的になりながら寝ていた夜が、もう1年も前のことになる。引越し先のさいたまでもそうだったけど引越し前の家でも卒業式前夜、カーテンがなくてダンボールと新聞紙と薄手のコートにくるまって寝た。あの時カーテンは偉大だと思った。1年いろんなことがあったなぁと思う半面、本当にいろんなことが起こりすぎてあっという間だったと思う。でもそれは「早かった」「短かった」とはまた違う。この1年の中にはそれなりに長くて辛い、地味に効くボディブローのような期間がいくつかあったことを忘れない。本当に3月が終わってほしくない。 ***一連の流れを鑑みると、やはりそれは僕が「意味を見出しすぎ」なんだと思う。これはもう思考パターンの癖になっていて簡単にひっぺがせるものではない。100円均一ショップで買えるグラスの底に貼ってあるシールのようなものだ。SNS越しには僕と同じくらいの年代の友人が何人も子どもと一緒に写っていた。それをみると心が不思議と穏やかになった。別にひねくれた嫌味や皮肉を言いたいのではなくて。僕の周りの何人もの友人たちが子どもを授かり、画面越しで幸せそうな光景を見せてもらえると「世界はこうやって回っているんだ」と実感させられた。だから ー迷惑だとしても「幸せそうだ」となるべくコメントするようにした。だってこれは本心なのだ。「いいね」だけで済ませられるうわべでは「子どもができたこと」や「幸せな日常を送っているように見えること」を祝福なんてできないと僕は思っている。 ***3月はあっという間に過ぎた。いつも終わってみてその1ヶ月間を「あっという間だった」と思っている気がする。それは仕方ない。そうとしか形容しがたいことだからだ。1年前に存在したはずの幸せな3月の影を、現在見かける町かどや部屋の中、人との関わりにおいて見出していたらつい時間が流れていた。次の3月まで待ち遠しくて、本当に3月が終わってほしくない。 ***この3月だけでカルテット全話を3周見てしまった。毎日BGMのアルバムをアップルミュージックで聴いた。去年リアルタイムでやっていた時に「なんでそんなに好きなの」と当時の彼女に言われた。僕だってなんでかは知らない。結局は何かに対して「意味を見出すこと」が好きだからだと思う。一見繋がっていないものが見えないところで繋がっていましたよー、というのが好きなんだと思う。これが僕にとってのロマンとしか言いようがない。おそらく僕が村上さんの作品を好むことについても似たような説明ができるんじゃないのだろうか。やっぱり僕は「意味を見出しすぎ」なんだろうか。ええ、どうなんでしょう?

 

本当に、3月が終わってほしくない。

 

カーテンがあるかないか - リハビリとトレーニングの間で