何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

2013年の冬 編

 

 どんな経緯で誘われたか今でも判然としないのだが、僕は東北出身というくくりで集まる飲み会に誘われて行った。あれは大学1年の12月だった。そこで出会った一つ上の芸術専攻の女性(以下、N氏)はロシアの人を想起させるくらい肌が白く、また目が黒い色ではなかった。

 

 Nさんは青森の出身で、彼女の目は青と緑の中間だったように記憶している。論理的に説明することはできないのだけど、どこか合点がいった。彼女の母は父の病状に対して時折ヒステリックになり、弟の面倒は私が見なければならないの、と言った。僕はそのようなことを唐突に言う彼女に惹かれたが、連絡先を聞くことができなかった。

 

 仕方なくその日はバラバラに帰り、誘ってくれた同じ出身の先輩に帰って連絡した。

「お前、Nさん狙ってるんだろ」と数分後に返事が来た。僕は驚いて夜中の1時半近くになっていたが、その理由や弁明みたいなものを考えた。考えているうちに立て続けにその先輩から連絡が入った。

 

「お前、△△ちゃんと遊んでたろ。あっちは割に真剣だったみたいだぞ」と言う。僕は確かにその△△ちゃんと遊んだ。でもそれは比喩的な意味ではなく、ただご飯を食べ、彼女が過度に酔っ払ってしまったから家まで送り届けただけだった。

 

 僕はできたての彼女の部屋に入った。彼女のつばの大きい帽子をとってから布団に寝かせ、ずっとつきっぱなしのTVを消した。そしてベッド横の小机で頬杖をついた。

「おれは入学前に何をやっているんだろう」と思った。5分も経つと彼女はすやすやと眠ってしまったので、彼女がさっき玄関先に置いた鍵でその部屋を閉め、外側のポストから鍵を入れた。そしてすぐに「鍵はポストに入れました」と連絡をした。三月二十九日の夜の風はとても冷たかった。ねこはねこ同士戯れていた。桜は土地特有の、街灯の青い光に照らされて不思議な色をしていた。居酒屋は寂しく、しけていた。

 

 以降彼女から連絡が来ることはなかった。また僕から彼女に連絡を入れることも自然となくなった。僕は僕で自分の生活を確立し、また周りの環境に慣れるので精一杯だったからだった。同時に、彼女も僕と同じく精一杯忙しくしているだろうと考えていた。

 

    くだんのどこまでを先輩が把握しているか知らなかったし、僕と彼女の間のことになぜ先輩が介入して来るのかについても皆目見当がつかなかったが、噂話とも言えない話がどこで広まるか考えるのはよした。

 

 結局僕はその先輩からNさんの連絡先を聞くことができなかったのだが、もうひとり別の先輩(以下、Fさん)が3日後くらいに僕とFさんとNさんのグループを作った。僕は当然驚いて「どうしたんですか」と電話で聞いた。するとFさんは「Nがお前のこと気に入ってるんだよ。でも俺もNさんのことは気になってるから3人でな」と言った。

 

 3人でチーズフォンデュのお店に行き、その後Fさんの広くてきれいな部屋で飲み直した。学生の一人暮らし部屋とはこういうものか、と感心させられた。しかし飲み直すといっても僕は一缶も飲まずに寝てしまった。ソファに横たわっているうちにまぶたが勝手に降りてしまったのだ。アンコールの許されないコンサートのような感じだった。ガラガラガラ。

 

 気がつくとNさんはFさんと同じベッドに潜り込み、情事の最中にいた。おそらく僕の勘違いでなければNさんはFさんとの情事を嫌がっていたように見えた。でもそれは僕の希望的観測であったかもわからない。あるいはここで起きたっていい意味での進展も解決もないと思ったから、あえて目をつむった。

 

 しかし結局眠れず、ほとんど音のない情事の空気を感じながら、2時間くらいは起きていたと思う。その空気はじつにひりひりとした。寝返り一つ打たず(打てず)、また息を大きく吸い直さずに寝ることができない僕にとっては、まさに絶望的な環境だった。内側からと外側からととても強く必要以上に圧され、摩られているような感じがした。

 

 言うまでもないが僕にとってこれはとても屈辱的な経験だった。別に僕はNさんと付き合っているわけではないし、そこで情事がとり行われてはいけないという理由もない。しかしそれはあってはならないことだった。少なからず僕は傷つき、学生生活はこんなことの連続か、と思ったものだった。でもクリスマスが近いせいもあって敏感になっているだけなのだ、と思うようにした。

 

 クリスマスを前々日に控え、激しいトレーニングで体力的に疲弊していた僕の元にNさんからメッセージが届いた。「こないだのこと怒ってる?」と聞くので、僕は「何のことかわからないな」と返した。結果的に起きていたことは知られていた。でも彼女が言うに、Fさんは気づいていないとのことだった。確かにそうだ。男はそんなこと気にしていられない、と同情的な気分になった。「よかったら25日空いてる?」と言うので僕は「空いてる」とだけ答えた。

 

 普通にご飯を食べ、どちらからともなくカラオケに入った。出ようとして気が付いた時には夜中の12時をすぎていたが心配するなかれ。学生街に住む我々には最終電車という概念がほとんどない。そしてどちらからともなく、彼女の部屋に行った。僕は招かれるままに彼女の部屋まで自転車を漕いだ。その間お互いに言葉を交わさなかったと思う。彼女の揺れる髪を見ながら、その遠くにある街灯を眺めた。いつになく光って見えた。でも確かに町は暗かった。

 

「油絵があるけどいい?」と彼女が部屋のドアを押す手前で聞いてきた。「何も問題なんかあるもんか」と答えておいた。たしかに油絵は置いてあった。うまく言葉できないのだけれども僕はそこでその通り美術室のにおいを思い出した。1m四方くらいあるキャンバスには中性的できれいな顔立ちをした人の横顔があった。芸専(芸術専門学群を略したものです)で一番顔のきれいな男の子にお願いして書かせてもらったの、と淡々と言った。

 

 しばらくキャンバスの中にある「顔」を見てNさんの方に視線を戻すと彼女は静かに泣いていた。どうしていいかわからなかった僕は静かに彼女の肩に手を置いた。肩は小刻みに震え、時折小さく跳ねた。彼女はゆっくりと膝から床につき、座り込んだ。何も考えず僕は彼女の肩を抱いた。そこにも言葉はなかったと思う。そうしながら僕は目を瞑り、おそらく5分くらいはそうしていた。やがて彼女は泣くのをやめ、何度か深く呼吸をした。過呼吸にだけはならないといいな、と考えていた。

 

「なんて言ったらわからないけど、彼(Fさん)と何かあったの?」と僕は聞いた。その掛け言葉は不適切だったかもしれないが、それ以外に思い浮かばなかったのだから仕方がない。「本当は嫌だったの」と彼女は声を絞り出して言った。僕はそこで「何とも思っていないよ」と言うか「忘れたらいいよ」と言うかでずいぶん悩んだ。その末に僕は何も言わないことにした。

 

 僕は静かに彼女のコートを脱がし、髪留めを取ってベッドに横たわらせた。僕も同じように上着を脱ぎ、ストライプのシャツにジーパンという格好で彼女の横に座った。彼女の手首は静かに脈を打っていた。僕は彼女が生きていることを肌で感じながら目をつぶった。やがて小さく手を引かれ、なすがままに横たわった。枕元のランプを消し、当然のことながら外から漏れ込んでくる淡い光以外、部屋の中は真っ暗になった。

 

「防音はきちんとしているの」と彼女は言い、すぐにその意味がわかった。本当に何も聞こえなかった。そこでは冷蔵庫も時計も死んでいた。僕の耳には彼女が時折ささやく言葉しか入ってこなかった。それ以外の音は何もなかった。僕は目を開けていた。彼女の方を向くと彼女も目を開けていた。お互いがお互いに何も書かれていないであろう天井を見つめた。そこにはもちろん何も書かれていなかった。

 

 僕はもう一度彼女の手首に指を当て、その脈を感じていた。さっきよりも波の打ち方が早まっていたような気がして、僕も自分の脈を測ってみた。すると僕の方の脈はもっと早く、かつ激しく波打っていた。少しばかり息も上がっていたように感じられる。こんなことはまるで初めてだったから僕は激しく混乱した。頭がぐらぐらした。