アライマサノリのブログ

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「マラソンの話」 ① 

 

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

 

 

 

 掲題しておいて「マラソンの話」というのはあまりに言葉足らずだ。あえてその不恰好なタイトルに補足するなら、マラソン「に向けてしっかりとトレーニングをしたい新入社員」の話であろう。

 

    でもそんなタイトルを見て誰が「さあ読もう」と思うだろうか。ただでさえ読んでもらえないというのに。それに、週に3、4日、時間を見つけてぼちぼち、場当たり的に走るのを果たして「トレーニング」と呼べるのかどうかはいささか疑問ではある*1

 

    ならばいっそシンプルに「マラソンの話」と銘打ってしまった方が、僕もあなたもお互いに気が楽になるのではあるまいか。さっそく「マラソン*2の話」をぼちぼち進めて行きたいと思う。今日はイントロダクション。

 

 

 今日は走らないつもりだった。しかし走った。なぜか。ランニングとは「お風呂に入るような」ものだからだ。これは、かの「暮らしの手帖」の編集長(伝説の編集者!)松浦弥太郎さんが自身の著書「それからの僕にはマラソンがあった」において綴っている。

 

     松浦さんは仕事でどうしても疲れてしまった。ある時ふと走ろうと思った。別に体力をつけたいとか痩せたいとかそういった目的ではない。なんとなく、ふと走ろうと思った。いろいろな失敗を重ね、今ではマラソンのレースに定期的に出るくらい「走力とその習慣」がついているという。毎日すきま時間を見つけ、走る。だってそれは「お風呂に入るような」ものだから。

 

 そんなこんなで僕も「お風呂に入る」つもりで走ってきた。ジムでスクワットと背筋、腹筋、レッグランジをして荷物を置き、7キロ。今日は暖かかったのでハーフパンツに、上は長袖のウエアを着てジムを飛び出した。走ってみると実際に体が軽く感じた。しっかり休んだおかげかジムで予備の運動を行ったおかげか、無事に怪我なくランニングを終えた。・・・

 

 

          ☆     ☆     ☆

 

 

 さて唐突だけれども、今日はお気に入りの文章を引用して閉じようと思う。村上さんは1984年に、ニュージャージー州にあるプリンシプル大学を訪れた際に、そこでの生活を日本の読者へ向けて、エッセイを書き続けた。「やがて哀しき外国語」は、そのエッセイを集めたものだ。

 

 私はこの文庫本を昨年の盆に父の実家にある山形の書店で買った。親戚や旧来の友人と飲み食いしながらも1日と少しで読んでしまった。とにかくこれを読むと「村上さんはやさしい」という感情しか抱かない。なぜか。なぜかはよく分からない。

 

 ところで引用はこの本の73pにある「アメリカで走ること、日本で走ること」の後日附記に書かれている。後日附記とは、文庫版になってから書き加えられたものだ。後日附記ではない本文は、そのタイトルの通りアメリカで走ることと日本で走ることの違いについて、村上さんの実際の体験をもとに書かれている。日本のマラソンは~、・・・これは今度引用する。

 

 なぜ引用するかについては、自分のことながら判然としないので、書き手としてとても情けなく、また悔しいのだけど「紹介したい」というささやかで無難な意思を置いておきたいと思う。

 

 

 長距離を走る人間には退屈で凡庸な人間が多いという説がある。僕自身も長距離を走るわけだがこの説にはかなり信憑性があるように思う。例えばランニングの専門誌の投書欄なんかを読んでいると確かにこれは退屈だなとつくづく感心させられることがある。世の中には数々の専門誌があるけれどこと文章的退屈さに関してはランニング雑誌はかなりいい線をいっていると思う。歯科技工士の専門誌だって文章的にはもう少しカラフルではあるまいか。

 

あるタレントタレントがテレビで早朝ジョギングなんかしてる奴を見ると足を引っ掛けてころばせたくなる。「お前らそんなにしてまで長生きしたいのか」と言っていたと誰かに聞いたことがあるけれど、その気持ちは僕にもわからないでもない。

 

 でもこれだけは断言できるけど、42キロを走るのは決して退屈な行為ではない。これは実にスリリングで、非日常的で、イマジネイティヴな行為であるそこではたとえ普段は退屈極まりない人間だって、走っているだけで「何か別のもの」になることができる。ただその「何か別のもの」のこと誰かに言葉で伝えようと思うとどういうわけか、ものすご月並みで退屈なものになってしまうだけなのである。

 

 それから某タレントのテレビでの意見には1つ間違いがある。われわれは決して長生きするために走っているわけではない。たとえ短くしか生きれないとしても(人の人生なんて多少の誤差はあれ所詮短いものではないか)、その短い生をなんとか十全に集中して生きるために走っているのだと思う。みんながそんなことをする必要はもちろんないけれど、そういう方法を選択する権利がひとにはある。それに、自分が結局は退屈で凡庸な人間だと思い知ることも、たまには必要ではないでしょうか。

 

村上春樹「やがて哀しき外国語」 p85

 

 お気に入りの後日附記について、あえて僕が言えることといえばこれだろう。確かに私の中での「ランニングに関する記載」をつまらないと思っている節はあった。それは現在進行形で息をひそめている。その呪縛に取り憑かれている。ある意味でこれは根源的でどうしようもない呪いなのだ。魅力を知った人にしかわからない。

 

 ことランニングにおける個人的な体験というものは(それはランニングのみならず、他のスポーツや芸術や音楽の分野でも同じかもしれない)それにいそしまない、関係のない人にとっては共感されにくい。「だからなんだ」って言われてしまう。

 

 その原因はもしかすると、その行為そのものの「退屈さ」であったり「理解のされにくさ」ではなく、人口や技術的困難さ、継続における困難さといった周辺的で社会によるものなのかもしれない。私は、それを「誰かわかってくれそうな人」に橋渡しをしなければならない。分かってくれそうな人、あるいはその分かってくれそう予備軍をみつけて、共感の輪を(無理矢理にではない)広げる役目を担おうとしている。

 

 私の中で、強く共鳴したこの文章はある種のお祈りごとのようにして機能する。なんというか、その、「こうなってはいかんよ」というような「目には見えない軸」になる。上記引用2段目以降の「やさしい建設的な意見」によって救われるものだから。

 

*1:そもそももう新入社員でもなくなる

*2:周辺に関する僕の個人的な