「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

「やり残した事があると思う日は、よく眠れない」

 

 いつだったか、インターネットで読んだ事がある。今日いちにちを十分やりきれないとよく眠れない、という。眠れない人は何かを抱えている。おんぶに抱っこに、足に腕に鎖をつけている。

    どこかに引き摺り込まれてしまわないように、必死にその場に留まろうとする。かろうじて眠りの底に着く。そこは浅い。とてもとても浅い。

 

 日常の不完全燃焼が続くと睡眠においても不燃焼が起きる。それはもちろん翌日、翌々日にも影響を及ぼす。もちろん大半は悪い意味で、だ。だが一方で、その日いちにちを十二分に力をだしきり生きられたとしても、なかなか冷めない興奮状態が続いてしまう。どっちなんだ、と思う。

 

 今日、私にとってよい事があり、気分はとても高まっている。このことについてはきっちりとした「しらせ」が出たら話そうと思う。今日は、なかなか寝付けないだろうか。それは困る。明日も7時半には会社に着き、せっせといちにちの始まりを支度する。

 

 5時にきちんと目が覚めたので、けさはいつも通りの道を一時間半ほど早く歩いた。枯葉が散らばる神社に目を向けるとさまざまな人が交差した。私は石のベンチに腰掛けた。毎朝の習慣のようにお参りしている人を見かけた。彼らは一様に手を叩き、頭を垂れた。そして何事もなかったように後ろを振り返り、日常へ帰っていった。そんな姿を見て、私は彼らがそれぞれ何を信じているのか少し気になった。

 

 「日常の繰り返し」というのは、トートロジーのようでもある。日常も繰り返しも同義ではないか。でもあえて「日常の繰り返し」というのには理由がある。どちらも苦難であるからだ。なぜ苦難かというと、それはここでは述べる事ができない。現実に、そうなってしまっては困るからだ。後戻りしなくないと、私が強く望むからだ。私は、新しい日常を作りたい・・・