「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

いくつになったら「おとな」なのか

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僕はスヌーピーが好きで、ラフな格好が許されるときは大体においてそれがプリントされたシャツを着ている。いつから好きなんだと聞かれても、好きになったタイミングはよくわからないものだ。こういう質問をされるたびに僕は往往にして答えに迷うのだけれども、いつの間にか好きになっていた、そういうものじゃないだろうか。

 

でも質問者だって本質的にそういうことを聞いているのではなくて、ホワイ  なんで?、ハウ オールド その歳なのに? みたいなニュアンスを含ませて訊いているのだろう。

 

こればっかりはいろんなタイミングが重なってと言うほかない。べつにユニバーサルスタジオジャパンスヌーピーの展覧会に足を運んだわけじゃないし、寝起きのよくない朝にぬいぐるみであるはずのスヌーピーが朝食を作って出してくれた、なんて体験もない。

 

スヌーピーとの初めての接触は小学生に使っていた青色の筆入れだった。ナイロン生地でスヌーピーの絵の部分はゴムか何かで作られていた。肌触りがよくて気に入っていたのを覚えていたが、何かの拍子でスヌーピーの真っ白い顔に鉛筆の跡がついてしまい、とてもショックを受けたような・・・。

 

それ以外には特に思い入れもなく、意図的に捨てていないはずの筆入れはいったいどこに行ってしまったのだろうか。この歳になってそういうことを考え出すと、ちょっとだけ胸が苦しくなる。

 

あの頃触っていたものを全て保管しておけるなんてことは (たいそうな偉人にでもならない限りありえないだろう) できなくて、意図的であろうがなかろうが何かの拍子に手放してしまったものはどこかにはきっとあるのだ。その行方が今になって気になったりする。

 

 

 

ジーンズ生地のグリーンのハーフパンツにユニクロで買ったスヌーピーのシャツを着て親戚の集まりに出かけた。この春から働き出した私に投げられる質問は大体において決まっている。「仕事はどうなんだ」である。どうなんだってどうなんだよ、どういえばいいんだよ。と思った。答えとして「学生とは違いますね」じゃあまずいし、「だいぶ慣れてきましたよ」でも「大変なのはこれから」になるだろう (いつだって大変なものは大変なのだ)。

 

でもふと考えて見るとここに居合わせた大人は皆それぞれ、いつの時代であってもそういった質問を投げかけられたのだろう(彼らの出番であり僕はそのキャッチャーになった。来年になったらまた違ったボールを投げられる)。

 

 

さしずめ大体の会話では「職場の雰囲気には慣れました。お昼や夜の飲みに誘ってくださるようになって楽しくやっています」と答えている。これだと大体いい印象を与えることができる。

 

 

やがて質問は新社会人生活から衣服へと移った。

スヌーピーば着て、社会人っぽくないもんだねえ」というおばあちゃんの指摘は、まさに当を得ていた。僕は僕自身について考えるとき、自分をまだおとなと思っていない節がある。それは言葉そのままに、都合よく若者であり続け、おじさんたちとは同等ではないでしょう、という意思表明を自分の中に持ち続けていることなのだ。

 

でも結局、世間では大人とみなされる年齢であり外見であろうとも、中身はやっぱりそんなに早く成熟しないものであり(というか子どもから大人への過程は成熟と呼ばないのだろうけれども)薄汚れた尻尾を引きずりながら海中に潜ったり、泥水のたまった道路でときどきそれを飛び越えながら歩き続けるようなものなのではないだろうか。

 

親戚との集まりに出るとご無沙汰にしている人に会える。彼らの記憶の中には僕がまだ小さい頃の僕であり続け、それがうまく成長できていないようである。そこには僕自身が覚えていないような頃の僕がいる。それで、久方ぶりに顔を突き合わせて話していると、彼らは僕自身のアドレッセンス(少年から青年への移行期)はどんなものだったのか教えてくれる。

 

彼らにとって酒で乾杯するのは、やっぱり感慨深いみたいだ。

 

他人に自分のことを教えてもらうというのは、どうにも不思議な気分にさせられる。こんな僕でさえも「おっきくなったねえ」と言われて「ええ、おかげさまで」というような歳になったのである。

 

 

 

スヌーピーのシャツはこれからも着ようと思う。