想像力の浪費的利用

 

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「僕はね、とても失礼な、男なんだよ。」と男は言った。

 

それは言葉通り、文字通り男だった。何が失礼なんだろう、と思ったが僕は尋ねるのをやめた。なぜならその言葉は、僕に対して向けられたものではなかったからだ。それでは、誰に向けられていたのだろう?見当たらなかった。

 

なぜなら、それもまた文字通りその空間には僕と彼しかいなかったからだ。(彼が男であることを公言しているから、断定しても差し支えないだろう)

 

「その空間には僕と彼しかいなかった」。そう口に出してみると、自分がなんだかおかしいことを口にしているみたいで不安になった。思想的にあやしいんじゃないかとさえ思ったりした。だから僕は慎まないといけない。

まるで足元がグラグラと揺れているようだった。(いやそれは実際のところ足元がグラグラと揺れていたのだ。その時、文字通りその空間に僕と彼しかいなかったその場所で僕はその真実に気づかなかっただけであって。)

 

 

たとえば僕が、その失礼な彼に、足元が揺れている気がするんだけどあなたはどう?と訊けば、それはおそらくね地球が持ち上げてくれているんだ。そして僕らもまた地球を持ち上げているんだ。だから時々ぷるぷるいう。君はぶるぶる派?と言いそうだった。参ったなあ。

 

無駄なやり取りだった。不毛なコミュニケーションだった。こんなこと書いたって、言ってみたって想像力の浪費的利用に過ぎなかった。

 

 

 

 

僕がこうして、その当時のことを思い返してみると、それが現実に起こったことではないように思えた。だいいち、あれはいつの事だったんだろう。ある夏の昼下がりだったような気がするし、とことん寒い冬の夜明けだったような気もする。どうやら時間の感覚がおかしいみたいだ。

 

ところがそれはくっきりと、とても克明にあざやかに、彼の輪郭を目の裏に思い浮かべることができた。(だがそこに部品はない。欠落している。)

そこで彼は、30センチほどの正方形に切り抜かれた窓のような箱に向かって呟くことをやめなかった。

 

僕はその間、この人は何を言っているんだろうというスタートから、この人がどうして女じゃないんだろう?というゴールまで走り抜けた。そこには何も邪魔するものがなかった。彼女が私の手を引いて草原を真っ二つにさくように移動した。スッと。もとより草原の終わりと始まりは誰にもわからない。

 

寸高い上空から見下ろさないと、多分それはわからない。

 

 

 

高くて青い空には、筋雲が流れていた。今にも消えそうだった。雲は絶え間なく、消えては生まれ、生まれては消える。どうしてそんな単純なことに気がつかなかったんだろう。僕は空にいた。そして彼女も彼も誰も彼もみんな空にいた。なんだか馬鹿げている。そんなことはあってはならない。

 

 

 

*  *  *

 

 

 

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失礼な彼は私に何を伝えたかったんだろう。もうこの世にはいないかもしれないあの男は私に何を見せたかったんだろう。なんだか馬鹿げている。そう言ってほしかったのかも知れない。馬鹿げてる。口にしてみるとひどく物騒で、そんな一言は誰かを傷つけうるけれども、僕はそっと自分に向かって言ってみたい。君の人生はとても馬鹿げている。

 

彼にとっては、伝えたいことなんてはじめからなかったかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

羊をめぐる冒険」と「ダンス・ダンス・ダンス」は喪失の物語だ。

 

主人公はいろんなものを失う。失うだけじゃない。大きかったり、小さかったりする確かな傷跡を残して、みんなその場から「退場」していく。つまり、失いながらにして何かを得るのだ。

 

彼らはもう、出しゃばったりなんかしない。彼らは、現実世界にぽつりと取り残される主人公の心の中でのみ生きる。それは文字通り生きるのではない。死ながらにして生きるのだ。

 

 

 

コレラハソウシツノモノガタリデス」。そういってしまうのはひどく単純なことなのだが、事態はそんなに甘くないし現実はもっと酷い。事は簡単に進まない。

 

聞き飽きるのだ。村上さんの小説は「喪失」がテーマです、なんていうのは。でもあれは喪失の物語なのです。私も今、こういってしまうほかないだろう。

 

 

この物語の中で主人公「僕」を取り巻くみんなは主人公「僕」を媒介として通り過ぎていく。入り口が右側にあったら、出口は左側。出口がもし右側にあるなら、入り口は左側にある。それらは常に、対になっていなければならない。つまり、出入口が同時に存在してはいけないのだ。出口と入口が同時に存在してしまうそれは、雌雄同体のミミズくらいの価値しかない。(ミミズに価値がないといっているのではない。)

 

 

 

私はここまで、自信満々と語っていながら、本質をよくわかっていない。けれども大丈夫だろう。所詮そんなものだ。そうであってほしい、そうであってくれるだろう。

 

誰かが入ったら誰かは押し出される。僕が入室したら知らない誰かは退室している。いや違う。それはもともと別の部屋に入っているのだ。他人はきちんと部屋にいる。座っていたりTVを見ていたりする。

 

時々、単なる知人とか、気になっているあの子とか、たまたま連絡をするようになった昔なじみとかが入室してくる。ただ彼らは同じところに長くは留まらない。みんなバラバラに、しかしながら裏でしっかりと合わせているんじゃないかと思わせるようなタイミングで、ぞろぞろと出ていく。彼らは見事に時を運んでいく。彼らは決まって退室するのだ。決まっているのだ。なぜだろう。そこに電話のあるような保留ボタンはない。わずかな留保も許されない。なぜだろう。

 

 

(大したものではない)そんな疑問から私は、ひと一人には、満員電車のように都合よくたくさんの人間は収まらない、という結論を見つけ出した。残念なことに収まらなくて、残念ながら見つけてしまった。

 

それもまた奇妙なことに、グラグラ揺れる満員電車の中で。

 

 

 

 

「僕」はユミヨシさんに対してではなく、ユミヨシさんの通う「スイミングスクール」に嫉妬する。ユミヨシさん「僕」は札幌のホテルで出会う。僕はユミヨシさんに、僕らにはどこか相通じるところがあるんだ、といって口説く。ユミヨシさんは「僕」の電話をガチャリと叩きつけるように切る。「僕」も私もユミヨシさんが好きだ。

だが、それよりもっとユキが好きだ。

 

 

 

 

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