何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

裸足でベランダに出ても悪くない季節になった

先月後輩に卒業祝いといって、万年筆をもらった。頻繁にメモしたり、字が汚いくせに何かと「書く」ことにこだわりがある私は、にもかかわらず万年筆のメーカーやブランドには疎くてあまり詳しくはなかった。そのまま開けずにいてもらってから三週間ほど経とうとしていた。「そろそろ」と時期を見計らって抽斗から出してみると、あらわれた万年筆のスタイリッシュさにワクワクした。また組み立てるのも容易で「優しいな」と感じた。ところが書くのを試してみると、なかなかインクが出てこなくて、あれ、組み立てを間違えたかな?と、間違えようもないミスを思い浮かべながら、グルグルグルグルと横向きの竜巻を描くようにして紙の上を滑らせた。そこにはペン先の跡しか残らなかった。これは精巧に作られた万年筆の模型なのかと思った。しばらくするとインクは出てきて、それは想像以上に青かった。・・・見覚えのある色、この筆致はなんだろうと思い巡らせてみると、卒論の指導教官のコメントだった。

・・・ゼミ配属初めての課題は(この時期が締め切りの)「人文社会科学の書籍を3冊購入し、そのうち2冊を読んで、その感想文とコメントをレポートにしてまとめよ」というものだった。(何字の指定だったかは覚えていない。)・・・私は悩んだ末に、誰がテレビ(業界)をダメにしたのか、という本と、開発人類学の講義で教科書に使ったテキストを選択した。その教授の講義ははじめ、大1の秋にあり、大3の春がゼミのスタートになっていた。もちろん大1以来、その教授に書き物を見せていない私はひどく焦り緊張し、嫌なきぶんを抱きしめながら最初のゼミを迎えた。そこで手渡した。こんなのを読んだらおそらく教授は卒倒し、目が覚めて起き上がると徐ろにそれをビリビリに破り捨てたくなるだろう、とか考えながらコメントや講評の返却を待った。・・・返ってきたペーパーはビリビリと破り捨てられてはいなかった。その代わりにペーパーは青色の筆跡でびっしりと線が引かれ、またコメントされ、所々にはバッテンが記されていた。あるいは、下線が引かれ左端に二重丸が添えられていた。深くて暗い青色だった。そこでは良くない点と良い点が指摘された。(「ペンは剣よりも強し」の話ではないのだけれど)あの時の私は教授に、刀剣の代わりに鋭くとがったペン先を喉元に突きつけられたような気分だった。後輩のつぶやきを見て、思い出した。そして今、自らの手で万年筆をあやつり、グルグルと横向きの竜巻を描きながら思い出しているところだ。・・・自分の書き物を評価されるというのはとても辛いことだ。はあちゅうさんの本を読むとなおさらよくわかるのだけど、今私がここで書いている何かは全く生産性をもたない。当たり前だけど、私以外の誰の得にもならない。あるいは私の得にもならない。・・・それは「貴重な時間の無駄な切り売り」といっても良い。しかし、そういった無駄を指摘し、エコロジカルな節約志向へ促すためには、この場合、時間そのものを貴重なものとみなせるだけの経験 を持っていなければならない。あなたは時間が貴重というが、それ相応の理由を述べることができるか、と口には出さずとも問うようにしている。それはじっさい、仕事の現場に立ってみると「貴重さ」やそれを論証するだけの理由が転がっていて、適宜目の当たりにできる。まだただの端くれだけども、それぐらいの理解はある。

・・・それこそ読書や映像の鑑賞といったインプット、一方で物書きや人との会話といったアウトプットの作業に限らないのだが、まずそういった経験もなしに、ただ時間が等しく与えられなおかつ有限である以上、何も生み出さない書き物は無駄である、とは言えないのではないか。あくまで私はそう自戒している。時間の貴重さは、それだけ時間を無駄にしてきたものにだけわかるのである。・・・私はこうして書いている。理由はそれぞれたくさんあって、今は書ききれない。誰に理解されようとも、あるいはされなくとも、それは鏡に映る自分を毎朝毎晩いちどは点検するのと同じように、無駄かどうか判断できないことなのだ。私は社会人になり、メタファーとしてもじっさいにも、鏡に映る自分をいちにちに何度か点検する必要性に気がついた。・・・村上さんはあるところで、書くことそのものを自己表現の場とするのは、いろんな意味で難しいし、あくまで僕はそう考えていない、みたいなことを言っていて、私はそれに強く共感してしまった。(してしまった、というのはレトリックでもなんでもなくて、本当にそうだよなあ、ウンウン、、と強く頷いてしまうからである。これは村上さんのファンである私としての意見を除き、一個人の意見としても採用できる。)

・・・どんな局面に立っても私は*1、自ら書くことを選び、やがて請け負うようになって、それを自分の武器にしていこうとする。-たとえ持っているものが、ひのきのぼうであっても良くて、大切なのは私が今何を持っているのかを知っているかどうかなのだ。それを問わずしてはじめられない。その喩えは武器でなくても、ただの持ち物でもよい。たとえば私がいきなり暴漢に襲われた時、手のひらに貧弱なおたまがあれば仕方なくそれで立ち向かうし、するどい刀剣があれば心強く抵抗できる。その何かを持つためには、それまでの過程で自分が今何を書いてきたかをきちんと点検し、それがどんな性質を持っているものか認めなければいけない。ポケットとリュックには何が入っているのかを、30分おきにでも1時間おきにでも6時間おきでも、あるいは1日が終わるときにでも確認しなければいけない。🍎🍎🍎・・・世の中には優れた文章があれば、そうでない文章もたくさんある。私が知らないだけで、優れた文章は今もどこかで息を潜ませているだろう。(それは絶対に、ある。)優れた文章が隠れていそうな場所を手当たりしだい探るのは、それだけで知的好奇心を満たしてくれるけれど、効率としてあまり良くない。(しかしそれが楽しい…。)裏を返せば、それは、書くことそのものにも、似たようなことが言えるのではないだろうか・・・・。🌲🌲🌲・・・数えるほどの何度目かに偶然、隠れがの上蓋を外したとき、私はそこに何をみるのだろうか? ・・・裸足でベランダに出ても悪くない季節になった。日中の陽ざしでぬくんだベランダの床が心地いい。なんて考えていたらこの時間。私は寝なきゃいけない、

*1:私たちは