「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

心のどこかでは「せいせいした」と思う自分がいたのかもしれない

f:id:masa1751:20170324182358j:image

 

    卒業式を終えました。

 

 どれだけ希っても叶わないことがたくさんあるのを知ることができた大学生活でした。心の中では何度も地団駄を踏んだこともありますし、いや、じっさい地団駄を踏んだことも多々あります。

 

 何をしにここにやってきたのだろうと、考えもしなかった一年生。何をしにここにやってきたのか、ついに考えるようになった二年生。何をしにここにやってきたのか、という問いそのものに縛られず、学問、生活、陸上競技を自由に謳歌しようと気づいた三年生。すべてを洗いざらい総復習し、ふたたび、何をしにここにやってきたのかを問い、自身を見つめなおす四年生。正確に、線引きできるわけではないけれども、キチンと周期的にシーズンをめぐらす陸上競技の季節とともに、この地で生活してきたことは揺るがない事実です。

 

 いつの日かどこかで「若いうちは、人生は要約できない」みたいなことを聞いたことがあって、その時の私は「まあそうだよな」としか思わなかったのですが、今こうして一つの節目を迎える季節に立ってみると「時には、要約できることもある」と思うことができます。何度も顔を合わせたコンビニ店員ともう会わなくなるのか、と思うと私はやや寂しくて、それは、級友や仲間と離れることとは何か少しちがうのだ。

 

会計後の「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」という言葉になんだか不思議な魔力を込められた気がして、もしかすると私はまたここでホットコーヒーを買っているかもしれないな、と思ったりする。

 

 

 式後、お世話になったコーチに挨拶をしに行った。思い出話やこれからの話をなにげなくするけれど、何か物足りない。そういうぬくい関係に収斂するのが私にとって居心地が良くない。それでいいのか、と私は思ってしまう。そこではもっとやれた自分、もっとやれなくてはいけなかった自分がせめぎ合っていて、なんならさいごのさいごまで苦言を呈されたかったのだ。しかし、そうはいってもこういう時期だから、こういう季節だからやさしく見送ろうとするコーチの姿に、私はいままでの日常では感じ得ぬようなさびしさとぬくもりを抱き、ついには閉められるドアを静かに見つめていた。学生として、もうこのドアを叩くことはないのだ。

 

 帰り道、何度も何度も眺めた風景が、いつもと変わらなく見えるような、否、変わって見えるような変な気分だった。学内のT字路、きょうはとくに車が多くて私は通り過ぎる車を何台も待っていた。10台ほど過ぎたすえ停まってくれた白い車は、きれいな女性の運転する車だった。その車には初心者マークが貼ってあった。私は二度ほどお辞儀をし、すみやかに渡った。

 

 式はもちろん、他の会で涙は流れなかった。惜しい、と思う気持ちはあったにせよ、泣くほどのことではないな、と感じていた。なるほど心のどこかでは「せいせいした」と思う自分がいたのかもしれない。だがやはり、思い返してみるとふつふつと湧き上がってくるいくつもの思い出やなつかしみは今日のみで収まらず、この先も数ヶ月ほど「ゆとり学生」の気分を引きずっているかもしれない。

 

    たとえば私にも夏休みの終わりのホームルームで「いつまでも夏休みボケしてるなよ~」と声がけする担任教諭のような存在がいるといいのだけれど。

 

f:id:masa1751:20170324182445j:image