「エゴサ」と「雨田政彦」

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 村上さんの新著『騎士団長殺し』に「雨田政彦」という男が出てくる。

 

 彼は、主人公の「私」と美大の頃からの付き合いでそこまで頻繁に登場するわけではないが、今回の物語が進行する上では(とりあえず)必要不可欠な存在である。

 それで唐突だけども、私は彼の名前「政彦」を見るたびに、社会学者であり最近、作家的活動で引っ張りだこの「岸政彦」さんを思い浮かべてしまう。私は実際に岸先生を見たことはないし、写真や画像以外で動いている岸先生の姿は、古舘伊知郎と対談がテーマのテレビ番組でしか見たことがない。そこでは初めて(電波を通じて)岸先生の声を聞き取るわけだけど、私はいろいろな岸先生の文章を読んできた過去を思いだして、何かと何かが「リンク」するような感覚がした。

 

 そんな私は今月27日に、新宿で岸先生と直木賞作家・柴崎友香さんのトークライブに参加する。それがとてもとても楽しみなので、正直、卒業式やその他のイベントはさっさと終わってほしい。

 

 「私」の友人、雨田政彦の父・雨田具彦はかつて、高名な日本画家だった。その雨田具彦が住まいやアトリエとして使っていたたてものは神奈川の小田原にある。

 主人公「私」は能動的に自身の住まいを失い、旅に出る。そこで不思議な体験をする。(私としては初めて、村上さんの文章のなかに、私の出身の宮城県山形県などを見つけることができて、なぜかとても嬉しかった。)

 やがて関東地方に出戻りする彼は、友人である雨田政彦を通じて具彦のアトリエを借り、実質的に受けもつことになる。(第1部「顕れるイデア編」前半の記述を参照するなら「期間限定」で?)

 主人公「私」はその住まい兼アトリエで、タイトルにも掲げられている騎士団長殺しの「絵」を見つける。そこからどんどん物語は進んでいく。私たちの知らないところで物語はどんどん進んでいく。

 

 美大の頃からの友人の雨田政彦は主人公「私」よりも二つ上の38歳という設定で、一方現実世界の岸先生は1967年生まれらしいから、今年50歳を迎えるのだろうか。したがって雨田政彦と岸政彦は、年齢としてはそぐわないわけだ。だが私は第2部「遷ろうメタファー編」に手をつけ、第1部をふくめ500ページ以上めくってもなお雨田政彦が出てくると、岸先生の顔を思い浮かべてしまう。なぜだろう?

 

 

 

 

ところで話は変わるが「エゴサ」という言葉がある。

 

エゴサーチ (egosearching) とは、インターネット上で、自分の本名やハンドルネーム、運営しているサイト名やブログ名で検索して自分自身の評価を確認する行為のことである」 

https://matome.naver.jp/odai/2142361379199410701より転載

 

 

 私はその言葉の意味を調べるまで、その言葉は「どこかで聞いたことがあるが知らない」言葉だった。だがテレビやラジオで耳にするたびに「こんな意味じゃなかっただろうか」とまるで以前から知っていたような感覚を味わった。

 

 私は、さまざまな文脈の中で「エゴサ」という意味を意識せず理解していたのか、あるいは知らないうちに「エゴサ」に関する詳細な説明をどこかで耳にしていたのか、正確なことは何もわからない。しかしただ一つ言えるのは、それが漠然とした気持ちで、初対面のような気持ちで「エゴサ」という言葉をいつも出迎えていたから、この一連の体験における「記憶」には、ある種の「デジャビュ」的なものを感じてきた、とだけ言っておきたい。

 

 それでこれについて「どうしてなのか」とここ数日考えていて、たまたま見た昨日の「行列のできる法律相談所」に出演した日本ヒップホップ界の先駆者(と言われる)「Kダブシャイン」が「エゴサ」に関する話題を扱ったのでこれを書こうと思った。

 

 こんな話だった。彼は、街を歩いているとコアなファンなどに寄ってこられて、そこでは快く一緒に写真を撮ったりする。

 彼はその日の夜にツイッターなどで「エゴサ」をしてみると、さっき出会ったファンがしたであろう(ファン自身の顔にはしっかりモザイクを施したツーショットの)ツイートを見つける。

 これについて「Kダブシャイン」はあまり心持ちよくなさそうで、いささか許せない様子だった。(本気かどうか、真意はわからないが)

 

 もちろん個人情報の保護という点では、間違った行いではないが、そうだとすると「Kダブシャイン」はしっかり顔を映されていいのかという話になる。

 だが私の思う問題点はそこではない。高名なラッパーとしての彼があの番組でそういった発言することにより、彼ではない誰かが「エゴサ」ではない形で(「Kダブシャイン」の代理という形での「エゴサ」?)検索をするかもしれない。たちまちそのファンは、そのほかのもっと非難されるべき行いがあった場合、炎上してしまうだろう。そういった可能性は身近ないたるところにあふれている。

 

 ネット社会では、自身の顔の入った写真や画像を載せるべきではない、とよくいわれる。でも私たちは感覚的に、じっさいそういった危険にさらされることは滅多にない、と思っている。こういった感覚はどこまで認められるだろうか。認められるというか許されるというか、いつまでそのまま居心地よくいられるのだろうか。

高度なネットの使い方が広まるだけ広まったいま、鋭くとがったブーメランが、いつどこでどのようにして自身の頭部もしくは心臓の裏側を直撃するかわからないな。 ということで、あくまでただの記録として書いてみました。

 

 

 

 

 それでもなお私は(懲りずに)あわよくば岸先生による「エゴサ」に引っかかったりなんかして、ブログやツイートを読まれたいな、と少しは思うのである。一昨年出された『断片的なものの社会学』(2015)では、岸先生は芸能人が書くブログよりもふつうの一般大衆がとりとめもなくつづるブログを見つけては読むのが好きだと言っている。

 

 私は実際に、atプラスの「生活史」特集(【特集分冊版】atプラス 28 (岸政彦 編集協力 生活史))で岸先生が(大々的に)取り上げられたものを買い、それについて「語り」などと絡め合わせてブログ記事を書いたことがあった。

それをじっさいリンクツイートした時、岸先生が「いいね」をくださったのがすごい嬉しかった。

 

 それともうひとつある。フェイスブックの更新で「字数が少なくなると文字が大きくなってしまうのが嫌」みたいなツイートに反応した時も、2回ぐらいリプライのやりとりが繋がったのも嬉しかった。よく覚えている。それは確か「腹がへった、くらいのことを言いたいだけなのにあれだけおっきく表示されるのはめっちゃ嫌」みたいなことだった気がする。

 

 その時私は、画面を眺めながら部屋で一人で笑ってた。著名人とラフに繋がれる、それはやはり私にとって SNSのいいところだと思っている。クソリプは、本当にその名の通りクソだなと思うたちです。私は岸先生が好きです。

 

 

 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学