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宙ぶらりんになった傘。あるいは開かれることのなかった傘

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  僕はその頃、スニーカーの中の小石を不本意ながらも許し、歩き続けていた。砂利道を歩いたわけではないのに(というか今日いちにち、アスファルトしか踏みしめていなかったはずだ)私のスニーカーの中には、履いているあるじを少なくともよい気分にさせないような小石が転がり込んでいる。歩いて13分。私の早歩きだと10分。駅の出口 to 家の玄関だと正確な時間は11分24秒だった。

 

 引っ越し先についた時ハッと気づいた。大学に健康診断証明書を取りに行く時、その駐車場は砂利だった。ならばなぜ、その時に入ったであろう「小石」は、何時間も経ち、引っ越し先のマンションが目前というところで姿を現したのだろう?それまでそいつはどこに隠れていたというんだろう?それを考える上でたどり着く最適な解はいくつかのパターンが思いつく。そもそも、砂利道を歩かなくても小石はそこらへんの道路に転がっている。時々走ったりして、その隙にそいつは入り込んできたかもしれない。そんなことを考えていると、いつの日か少年期、キックボードで転び、膝に小石がのめり込んだのを見て泣きわめいた自分の姿が思いだされた。今となってはアスレチックのあんなデコボコしたアルファルトの上をキックボードでスーイスイしようなんて考え自体が浅はかだったのだ。そのうちスニーカーに入った小石のことはどうでもよくなっていた。

 

 不動産の情報では最寄り駅から13分。結構あるな、と思いつつも初期費用を部屋消毒代の16200円以外全てチャラにしてくれる、とのことだったので*1私はその部屋に決めてやった。もとは某企業の社宅として使われており、(その企業は誰もが一度は見聞きしたりお世話になったことがあるだろう。もしかするとそのサービスのための企業が存在するのか、と驚くかもしれない。) スペックとしては不自由なかった。駅まで少し歩くのがネックであるが、そのうち自転車にでも切り替えよう、と考えていた。

 

 そこに入るために新宿の管理会社まで足を運び、鍵を受け取り、就職先に提出する資料の整理などをしていたら業者がやってくる時間が迫っていた。猥雑とした渋谷で急いでゆうちょATMを見つけ、喧騒をかき分け迷いながらもたどり着いた。

 

 その道とちゅうには、渋谷古書センターという表向きは立派な古書店であったが、中に入ると半分がアダルトビデオなど「成人向け」で占められていた。素晴らしい、さすがだと思った。(アダルトビデオを買う予定はない。)私はそこで店先に並ぶ100円均一の、村上春樹の『回転木馬のデッド・ヒート』と新渡戸稲造の『武士道』を購入した。店主であろう白髪の混じったモジャモジャのおっちゃんがカバーつける?と聞くので、私は、じゃあ武士道の方だけお願いします、と答えた。

 

 それに対し「そこにある栞(しおり)好きに持ってって」と笑顔で言うから、私はていねいに一枚剥がして『武士道』に挟み込んだ。そこには「知恵は無限」というタイトルで松下幸之助の言葉が載っていた。

なすべきことをなす

という勇気と、人の声に私心なく

耳を傾けるという謙虚さがあったならば、

知恵はこんこんとわき出て

くるのである。 

--松下幸之助 『大切なこと』PHP研究所 より

 

 

 

 JR渋谷駅にて電車にスムーズに乗ることができた私は、混んでいないこと祈っていた。ドアがひらき、吐き出されていくさっきまで乗客だった彼らはいっしんに階段に向かっていく。

実際電車に乗ると、そこには二つのベビーカーが並んでいた。ベビーカーを引く彼女たちは共通の知り合いかと思ったがそうではなかった。右側の乳幼児イン ベビーカーはアルコールの入ったプラスチックケースを握りしめていた。

 

 なぜ「アルコール」が入っていることを知っているのかというと私がその乳幼児の母親であろう女性に聞いたからだ。さっき買ったばかりの『回転木馬のデッド・ヒート』を読んでいると乳幼児はよく反応した。(というよりも、その本から目を離し、貼ってある広告などに目を向けた時だ。)熱い視線に気づき私はその乳幼児としばらくにらめっこをしていたと思う。それに飽きたのか乳幼児は液体の入ったプラスチックケースをブンブン振り回すので私はそれに笑った。笑ったところで母親も、私が凶悪ではない人物だと判断してくれたのか笑顔でごめんなさいね、と口にした。全然いいんです、そのケースに何が入っているんですか?と聞くと、アルコールです。殺菌とか消毒するための。と言い、乳幼児からやさしくケースを奪った。体の構造、機能解剖的に手の届かないところにケースを奪われた(隠された)乳幼児はバタバタと足を動かした。母親は結局のところ、慣れた感じでケースをふたたび乳幼児にあたえた。

殺菌消毒するためのアルコールの入ったプラスチックケースをあたえた。

 

 代々木駅についた頃、その母親に「ありがとうございます」と言われ、彼らは降りていった。その代わりにまた一つベビーカーが入ってきた。母親と思しき女性は二人の娘と手を繋ぎ、その夫と思しき男性がベビーカーを押していた。やがて高田馬場駅で降りていく時、母親は娘たちの手を取り「さあここよ。Here you are. 」と言っていたのが妙に記憶に残って離れない。誠に流ちょうな「Here you are.」だった。

 

 

   私は先日、気象情報を念入りに確認し東京が夜から雨になることを知っていたのにもかかわらず、風呂場ドアの引き戸に傘を掛けたまま(私にとってそれは傘を出先に持っていく準備である)外出した。予想した通り、夜の東京を覆う厚い雨雲は、大きくてふてぶてしい雨粒を降らせた。それで学習というわけではないが、低い降水確率の今日、可能性はけっしてゼロではないと思い (それはあの日と同じように空に厚い雲がたれ込んでいたのをみた私は) 注意深く傘を握って出てきた。いちにちのスタートが曇りだった場合、昼さがり突然姿をみせる太陽に私は驚く。まるでその太陽のちらつかせが、いちにちの始まりを リスタートさせることを示唆しているようだ。結局今日私は傘を開くことはなかった。開かれることのなかった傘は今、転居先の玄関脇にある洗濯機の上に置かれている。

 

 

*1:全て払った場合、14万円とすこし掛かった