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歩いて春へ向かう

   私はそこをあてもなくただぶらぶらと歩くだけのつもりだった。それが今では二冊の本をにお金を払っている。なぜか。

テナントの前を横切るとそのテナントごとに種類も音量も様々な音楽が流されていて、通り過ぎるたびにそれはリミックスを早飛ばししながら聴いているような感覚に陥った。もちろん、準備中や閉店したテナントからは音は聴こえない。来客を待ちぼうけする店員は暇そうだ。そういう時間が私は嫌いだが、好きでもある。よくわからない。

新しく買い換えたアイフォーン7は性能が良すぎるのか敏感なのか、従来ついているホームボタンをほぼ触っただけで電源がオンされてしまう。もちろん、私が私自身のこの指でそのホームボタンを押しているから電源がオンされるわけだけれども、有無言わせないような敏感さと反応速度とで画面は開かれてしまう。用もなくそれがついてしまう度に私は、画面を閉じるためのボタンを押さなければならない。それだったら左腕にかかる裾を少し捲り、腕時計を見ればよいのだが、どうにも、この癖は直りそうもない。


昨晩はテレビ画面越しに視える「松岡茉優」があまりにもかわいすぎてつらくなる、みたいな普段だったら書かない文章をネットのブラウザや回線を介して投げ込んだ。あれだけ私は松岡茉優を思って文章を書いたから一瞬でも夢に出てきてくれればと思っていたのだが、その淡い期待は打ち壊された。虚しくて胸くそ悪い、そして後味の悪い夢を見た。この夢については書きたい気分にならない。当然のように、極度に一過性で一方通行の思いは伝わらないことを知った。


時期が春休みだからだろうか、中高生と思しき少女少年たちで溢れている。私はこの時期の時間を無為に過ごすような終末さが嫌いだった。彼らは楽しそうにゲームセンターに入り浸っていた。でもその入り浸るという様子は、一昔前のような一つのゲームに固執執着し続けるという雰囲気ではなく、なんとなくふらっと入っていろいろ見て屯ろする感じだった。この頃は春が近づく気配を感じる。日は延びて、夕方も明るい。

私はよく、新しい鉛筆と新しい消しゴムとを「新しい」という区切りにかこつけて筆記用具を新調させることを親に求めていた。ひとつの消しゴムに想い出があるのだが、未だにそれがどの消しゴムなのかわからないままでいる。あれは買ってもらったのではなく、町内会対抗の運動会の賞品だった。社会人になったら、新しい鉛筆と消しゴムは必要になるだろうか。

 

今年は花粉症の症状が例外的に少なく、梅の香りを知ることができた。はっきり言って恥ずかしいことに今まで梅の香りを知らなかった。今年はその香りを少しだけ認めることができて、一風ちがった春の感じかたをしている。でも本当は、春の気配や匂いなんてないのだ。そんなものは私たちが勝手に作り出している。

 


どこかを用もなくぶらぶらと歩くのが好きだ。その一瞬に、そのタイミングで訪れる出来事を渇望しているのか、その周りの景色は私にいろんなものを見せてくれる。そして私は本を二冊手に入れた。引越しの荷物が増えることを懲りずに。

軽井沢版の『るるぶ』を購入した。あすから軽井沢に行くためだ。もう一冊は岸さんの文章が載っている「社会学の未来」がテーマの『現代思想』だ。

 

少しくらい我慢しなければなぁ

 

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