何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

電車の他人について

 

 

電車でめずらしく座れた時のことだ。わたしの前に座る人たちを見ていると、彼らは横一列に 本、スマホ、本、スマホ、本、スマホという具合に並んでいた。これにひとまず驚き彼らをしばらく観察していた。一つ気が付いた。彼らはみな、対象物(本、スマホ)に向ける目線の動きかたが異なっていた。

あえて当たり前のことを書くようだが、スマホを眺める人たちは、視点が一点に集中し、首から頭にかけてほとんど動きを見せない。手で画面をなでれば顔を動かす必要がないからだ。一方、本を読む人は視線が上下左右し、人によって顔もわずかに動く。また、本を読む人はなぜか姿勢がよかった。手でスクロールさせる作業は、本のページをめくるための運動量とあまり大差ないはずだけれども、彼らの胸は背中に向かってひたすら窪んでいきそうなほどまで肩甲骨付近の背すじが曲がっていた。

 

 

電車で本を読むような人たちは、大抵、おしゃれなブックカバーをしていて、それがどんな本か判断できない。私はあれが結構きになる。そもそも私に知る権利などないのだけど、彼らがどんな本を読んでいるのかとてもきになる。

どこが他人と触れているのかわからないくらい混み合う電車の中であっても、彼らはすばらしく壮大で個別的な没入感を獲得しているようにみえる。口が悪いが、スマホタブレットはそうは見えない。あくまで私には、そうは見えない。

 

 

ある後輩の女子と本の話になって、彼女は、自分がどんな本を読んでいるか周囲の人間に知られたくない、と言った。それはどうしてなのか理由を尋ねると、私生活を覗き見られるような気分がしてぞわぞわするんです、といかにも不安そういったが、彼女はとあるSNSにほぼ毎時間アクセスし、自分がどこへいき何をしたかを書きこむ人間だった。これは一種の矛盾なのか、そうではないのか、改めてきくのを躊躇った私はあきらめた。デジタルとアナログは違う、ということを実感させられた。

 

 

 

過去に一度だけ、ブックカバーをせず堂々と読んでいる老人がいてその手元を見て見ると池波正太郎の『鬼平犯科帳』だった。なるほど私は納得した。彼がどんなシーンを読んでいるのか、その時は全く想像がつかないのだが、ただ居合わせた20分の間に怒りや喜びを表すようなゆたかな表情を交互に見せた。

 

 

 

またこの間、本の話とは異なるのだが就職先のイベント研修から物件探しを経てつくばへ帰ろうとしていた電車の中で私はつり革を握りしめていた。リュックサックを前にかけサラリーマンにサンドイッチされる形で電車の天井にぶら下がる広告をながめていた。必死に空気を求めていた。

前にいた初老と見える男性はところどころ白髪まじりで、綺麗な筋を見せるオールバックは清潔な印象を持たせた。彼は左手だけ、何とかして顔ぐらいの高さを維持しながらスマホを巧みに操作していた。左手で。彼はどうやら長い文章を書いていてその手は止まらなかった。それが私の目には止まった。

 

あれはメールやラインとかではなくおそらくメモだったと思う。しばらくして彼のスマホ画面の最上部に大きな太字で「今日1日のこと」という字面だけが見えた。彼はこの満員電車の中でややたいへんそうに「今日1日のこと」を書き殴っていて、それを見た私は何かを感じた。やがて彼は長い文章を書き終え、電源ボタンを押し画面を暗くしたのち、数十秒ほどスマホを握りしめ、後ろ側に開いたドアに流れるように吐き出されていった。私はその一連をたったの一度きり見たわけだが、彼にとってのゆるぎないようなルーチンワークを彷彿とさせた。あくまでそれは彷彿とさせた。