何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

上司について

 

 

 

「お兄さん。どうですか、酒かスケべはどうですか」

「え、いやあ間に合っているんで。大丈夫です。」

「え、ほんとに間に合っちゃってんの?実は欲しいんじゃ    ないですか」

「(やかましいなこいつ)」

 

よく腹の出た男は着ているスーツがパンパンになっていて耳に白いイヤホンをかけていた。男が小道を横切りながらズカズカと近づいてくるなり 話しかけてくるから、私たちは小雨に濡れながらも歩みをやめた。

 

 

「ちょっと歩きたいんです」

「え、雨降ってるのに?」

「そう。ちょっとそこまで」

「そこ(の通り)で店は終わりですよ」

「そしたらまた引き返してきます」

「そすか、わかりました」

 

 

引き返してくるなり改めて、さっきの男に声をかけられた辺りを見回すと太った男は別の「客」を捕まえたようだった。もしかしたらその「客」は男の同業的な仲間かもしれなかったが、互いが似たような雰囲気を共有し、当然のように醸し出しているようだったから、おそらく常連か何かでここら一帯を日頃から歩く者らしかった。別の男をつかまえた 彼の社会的評価は上がっただろうか。あるいは、下がっただろうか。

 

 

 

こういうキャッチがいるから未だにこの街は下品な空気をたもち続けているのかもしれない。以前私が働いていたアルバイト先の男性に仙台の高校に通っていたことを伝えると、その男性はその「下品な」街の「下品な」通りをよく知っていた。熟知していた、と言っても良い。男性は若いとき、営業部の一員で東京都内から仙台に単身赴任していたらしかった。大学は専修大を卒業していた。男性は、東MAXとごくせんでヤンクミに振り向いてもらえない役の俳優を足して2で割ったような顔だった。後から気づいたのだが、奇遇なことにそのメディア人はどちらも「東」だった。男性は常に温和な性格で、私が何かとミスをすれば常に助けてくれた。「私(あらい)のミスは自分のミス」という風に考えているような方だった。社会を知らない私にとってでも、まさに上司の鏡だった。そしてアルバイト先を5つ渡り歩いた私にとって一番やさしい上司だったかもしれない。男性は若い頃仙台にいた時、よく上司と一緒に下品な街に通わされたという。またそれが男性にとって大変な苦痛だったらしい。

 

 

 

 

 

 

綺麗な先輩の名まえはミクさんだったろうか。さきのゴルフ場のアルバイトとは異なる、甘味を売りにした和風喫茶店で知り合ったその女性とは本が好きだったことで話が弾んだ。先輩は確か歳が二つ上で、シフトが一緒になったとき、その前の週に作家 有川浩で盛り上がっていたこともあって、予想もせず持ってきてくれた「オススメ」を私に貸した。その「オススメ」の小説は、三つぐらいの短編がまとまって入っていた気がするがいまいち名前が思い出せない。

 

私はそれを読んですぐに返そうと思った。しかし次に会うまでのあいだにその店は潰れてしまった。私は電話がつながらないことを不審に思い、店まで行ってみると以前からその和風喫茶は静かな佇まいだったが、それよりもいっそう静かに影を落としていた。そして見たことのない人が数人ほど立ち入っていた。世の中には色々な手つづきがあるのだ、思った。そこは部屋からいちばん近いアルバイト先だったのに惜しいことをしたと思った。

 

半熟で作るオムライスが美味しかった。通常は6時間の労働に対して賄いが与えられるというルールだったが、私は唯一の男子であり、さらにはスポーツをやっている話もすぐに知られてしまったから、店主や店主婦人の厚意によって、私は5時間の労働で賄いを不足なく与えてもらった。それについて周りの人は特に難色を示すことなく、一緒に賄いを食べたりした。私にとってあのひと時がたのしかった。

 

住宅街のど真ん中に位置するその「店」はわかりにくくて、度々 電話がかかってきた。「どこですか?」と聞かれると「住宅街ど真ん中です。」と答えるほかなかったから、私はそこを抜け出して目印に立っていることをしたりもした。デジタルが進む中でもまだまだアナログな世界だな、とそう感じたことを覚えている。やがて潰れた店は住宅街のど真ん中で来店した客以外は知る由もない、という風にひっそりと、よその実用的な一軒家とほとんど区別がつかなくなっていくように溶け込んだ。今はそこに、そばの店がやってきて営業している。

 

 

 

かつての店は紛れもなく潰れて、そこに行き交う従業員はバラバラになった。「芸術」を専攻している同年の女は大学近くの定食屋に掛け持ちでアルバイトをしていたから今でも度々見かけるが、例外を除いてそれ以外の人間とは誰とも会っていない。そこにいたのは、シフトが被らないなど会ったことがない人を含めて10人程度だったと思う。

店長と僕以外の従業員は皆女性だった。学生から人妻まで多彩だった。そしてそこの居心地は決して悪いものではなかった。僕は彼女たちとの会話でいろんな情報を身につけ、いろんな話し方を体得した。それでも店長以外の人、つまり女性従業員とは一切誰とも連絡先を交換しなかった。ほとんど初めからそういう話にはならなかった。飲みに行こうかと誘われることはあっても、現実的に「じゃあ連絡先でも?」とはならなかった。あくまでそれが私にとって、相手にとって自然だったのだ。そのアルバイトはとても楽しかった。

 

 ちなみに連絡先を一切交換しなかった理由としては、その頃八ヶ月ほど付き合っていた年下の彼女がいたから、というのも今となって考えてみれば挙げることができる。アルバイトに慣れた頃、つまりそれはアルバイトとしての業務が急にシャット・アウトされる頃に、私は「別れ」を告げられることになる。その「別れ」のメールを開いたのは、その店の奥まった影にある小さな「事務室」だった。そこはとても事務室と言えるほどのものではなく、ほとんど物置として使われていた。埃っぽくて床にはドミグラスソースの大缶が積んであった。書類は時々床に散らばっていて、その上にはわらび餅に降りかけるきな粉がこぼれていた。

 

 

 

 

話は逸れたが、思わぬ形で会う機会を失った僕と先輩は、例外的に最寄りの薬局で再会した。一度すれ違い、数歩歩いたところでお互いが振り向いた。

 

 

「あ、あれもしかして、、」

「そうだよね?」

「本、ずっと借りっぱなしで。でも連絡先わからなかったから。」

 

 

気にしないで、というそぶりで明るい笑顔を見せてくれた先輩は全く変わってなかった。「今度でいいから、」と言い連絡先を交換した。といっても現代になぞって通信アプリを使ったまでだった。名まえはひらがなで「みく」という字だった。その日にやり取りをし、三日後ぐらいに通学路にあるローソンで待ち合わせをした。夕暮れにさしかかった頃合いだった。三分遅れてやってきた先輩は息を切らしていた。私は一応、申し訳ないという気持ちで一冊余分に私のオススメを持っていった。先輩も一冊持ってきていて驚いた。これもまた有川浩作品の一つである『三匹のおっさん』だった。

 

「またいいんですか借りて」

「これ、オススメなの」

 

オススメをオススメしたくなる気持ちが痛いほどわかる。その時この人は本が好きなんだということが痛いほどわかった。そのとき私もオススメの何か一冊を持って行ったはずなんだけど、その一冊が何だったのか今はよく思い出せない。私たちは、本のやり取りをしたその日から、どちらから連絡することもなくそれっきり一度も会っていない。そして今は連絡先も手元にない。一昨年の夏にアイフォーンを地面に落とし使用不可になり、僕は普段からバックアップも何もしなかったから、消え去ったデータの全ては見知らぬどこかの時空間でゆらゆらと彷徨っているはずだ。私は何かと不運だ。幸運にまみれた不運な人だ。

 

そしていま事実として残っているのは、先輩の『三匹のおっさん』が手元にあることと、なんの小説かわからないけれども私の「一冊の本」が先輩の手に渡っているということだけだ。引越しを機に本の整理をしていると『三匹のおっさん』を見つけた。奥から引っ張り出しそれを10秒ほど凝視した。そしてここに書いた一連のことがまるで何かの水脈を掘り当てるように、ふつふつと湧き上がってきた。私は先輩に対して一種の恋愛感情を抱いていたわけではない。、思い出との「間隔」や「距離感」について、まるでからだの大事な一部が損なわれてしまったような、何かノスタルジーを感じざる得ないことを書き留めておきたかったのだ。

やがて先輩は、この大学を卒業して行っただろう。そしてこの街を去っただろう。今はどこにいるんだろう。働いているだろうか。否、もしかすると進学しまだこの街に住み続けている可能性も考えられる。先輩の学部がどこだったかも思い出せない。それでも顔ははっきりと思い出すことができる。人をふくむ動物にとっての「顔」は、哲学的にも重要な要素だ。にせよ私と先輩は、簡単に連絡を取れる関係性でもなければ、相手が今どうしているのかを考えるほどの間柄でもないのだ。知らないうちに流れた時間がそうさせた、と思っている。

 

 

 

 

 

 

 

アルバイトが社会に出るなりなんの役に立つかわからないというのは「社会化されるための手段でしかない疑似体験経験」したことがない人から出る「でまかせ」だろう。そんなアルバイトをする暇があったら本を読む、勉強する、走る、遊ぶ、散財するなんてことは、誰だって最初からそうしたいのだ。しかし、そのためにはある程度の「犠牲」の精神性を宿し、どのような形の「労働」であっても一つを獲得し、自分に本来与えられた「時間」と「感覚」を売って、その対価を得流ことができる。そうしてやっと、趣味などの余暇活動に傾けることができる。ここではアルバイトは紛れもなく手段の一つでしかないし、くだらないことが多いのも確かだ。ただ見方によってその「くだらなさ」が自分にとってかけがえのない何かに変わるかもしれない。「変わる」という他動的な期待よりも、むしろ「見かたを身につける」という自動的な期待を求めたい。

 

その労働は自身の過去の体験にどう共鳴するのか。あるいは、この先にとっておくに値する「アクセサリー」を獲得できるか。ただ働く。私は一つの勤め先でも何個かの「アクセサリー」をもらって辞めてきた。人間関係、接客の方法、豊富なマニュアル、業界の動向、客層の分析、そしてはたらく感覚。

そのアクセサリーがきちんと輝くのはいつだろうと思い倦ねる。今すでに気づいていないだけで、目でみえないところでキラキラと光っているかもしれない。あるいは、何個かのアクセサリーはどっかに落としてきたかもわからない。大抵たいせつなことは目にみえないし、わかりにくいところにあるし。

 

 

 

三匹のおっさん (文春文庫)

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