「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

私は何も書けないと思えば少しは書けるのかもしれない

ちょっと書いてみようと思った。ここ一週間何をしてたかと言ったら「物件探し」ぐらいしか出てこない私はもう少しで大学生を終える。みなそれを惜しむように旅行に出かける。「大学生は人生の夏休み」とはじめて表現した人は誰だろう。どうでもよいことだった。美容師さんが「市販のシャンプーはやばいっす。あれは毒っす」っていうのくらいどうでもよいことだった。このあいだ取り上げたカウンセリングの授業では陸上部の後輩と同じグループになった。研究室の後輩もいた。「この一週間どうでしたか」という授業で課されたやり取りを経ていると、その陸上部の後輩はどうやらあたたかった休日のトレーニングで張りきりすぎて足が痛くなったようだった。彼とは普段所属が異なるのでよくは話さないが俗にいういいやつだった。次に、クライアントの「悩み」を聴いてあげましょうということで、その後輩とは違う他学部の女の子の話を聴いたら感情移入してしまってその子のこの先がいささか不安になった。物事をうまく決められなくて、夜更かしをしてしまい、何かしようと思い立っても過去の情報を参照して「出来ないだろう」と思い込んでしまうらしかった。それでも彼女はキチンと大学生をやっていた*1から私は少し安心したが、私には「みな、同じことがあるよ」としか言えなかった。そのあとの休み時間には、はじめて購買部ではじめてカップヌードル抹茶風味を買い、はじめてそこで湯を入れてきっちり3分待ち沢山すすった。色が好きだったがあまり食欲には結びつかなかった。普通にすれ違えばどんな会話も起こるはずないさっきまで他人だった彼女の話が、私の頭の中でずっと渦巻いていた。赤の他人の悩みがグワングワンと反響していた。少しだけその人の人生の一部に介入した気がして何故かどぎまぎした。サークルも勉強も人間関係もうまくいくといいな と思った。物件を探すのは就活に似ていた。あれもこれもどれもそれも。カウンセラーとしての不動産店員の話すことは何が真実か分からなくなった。もとより真実なんてないのかもしれなかった。いちにち内見したところでその物件のすべてが分かるわけじゃなかった。あるいは、さきに書いたカウンセリングに似ているなと思った。そしてそれは就職活動にもどこか似ていた。もしかするとこの世の中で起こるような人間生活のほとんどは就活もカウンセリングも物件探しもほとんど同じような過程をたどって、あるいてはしって息を切らせて、ようやくかりそめの真実に手が届くのかもしれない。「俺は真実が知りたいだけだ」はMOZUの主人公 倉木の私的に有名なセリフで私は気に入っていた。それは私が別に真実を暴くことがすべてだとは思っていないからかもしれなかった。それはその重要な真実を失ってしまうような、根底から何か覆してしまうような、ゆるぎない価値の何かを損なってしまうような体験をしたことが無いからなのかもしれなかった。唐突だが私は「~かもしれない」の響きが好きだ。「~かもしれない」と言えば物事はだいたい進んでだいたいうまくいく。別に責任なんて問われずに済むのだ。それでいいじゃないかと思った。周りのみんなは偉いからよくニュースを見てそのニュースの話を話題に出した。就職活動の時、これが特に辛かった。大方、頭には入っていたのでどこで突っ込んで止めてやればいいか分からなかったからだ。べらべらと饒舌に話す友人の顔を見て私は「この人こそが社会を変えるのかもしれない」と3度ほど頭を切り替えようとした。何が起こるか分からない世の中なのだ。とはいえ、こんなシニカルに物言いできるほど私にも余裕はないのだけれど、何と言っても彼らから吐き出される空論はどうも「メディアに毒されている」という感想しか得られなかったのだ。私は何も書けないと思えば少しは書けるのかもしれない

*1:ようにみえた