「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

『いかにもハイヒール』① スプリング・コート 

 

 

「また飲もうぜ」

 と彼は言った。彼はその後に何か続けようとしたがそれを遮って

「そうだね。近いうちまた連絡するね」

 と私は返した。

 

「きっと当分会うこともないでしょうけど。」と内心思っていたのだが、それは口にしなかった。誰だってそんなこと口にしないでしょう。

 

 

 

 

 神楽坂のある坂で別れた私たちは、まるではじめから決まっていたように、機械的にキチンと反対方向へ歩き出した。数歩歩いてみて寂しくなったのか、お互いが同時に振り向いた。その距離わずか数10メートルなのに。寂しい理由なんてないはずなのに。彼の顔が見えた。ついさっきまであんなに近くで顔を見合わせて、同じ食べ物をつまみ、同じ種類のお酒を飲み、会話を交わしていたのに「おかしいものだ」と。彼が改めて向きを直した時、私は首をかしげた。

 

 23時を回った夜の街はきれいだった。鮮やかで、汚くて、すぐそこで何かは生きていた。いろんなものごとが同居していた。既に死んでしまっているような、でもからだのどこか一部は生きているような感覚があった。そんな息吹はちっぽけで波打ち際で溺れた。

 

その息吹は気配となってこの目にうつった。酒に酔っていると尚更のことだった。オフィス・レディの背後に迫る男の腕は何かをとらえようとした。オフィス・レディはまるでそれを予見していたように、その腕からするりと身をかわした。男は死に、女は生きた。

 

 

 私はある女に連絡しようと思って立ち止まり、ポケットに入っているはずのケータイを探った。・・・はずと思っていたのだから、そこにケータイがないことは大方予想ついていた。私は妙に落ち着いていたが「はあ、なるほど」と感心している場合ではなかった。

 

幸い、財布はライムグリーンのスプリングコートのポケットに入っていたので、小銭を取り出しすぐそばにあった自動販売機で水を買った。缶コーヒーと水で悩んだ。

 

一度、冷静になろう。私は自分にそう言い聞かせた。めずらしく大量に飲んだ酒は、たった100円の飲料水ではなかなか覚めなかった。ちらほら散見できる市民は、これからが本番だぞと言わんばかりの勢いを醸し出していたが、それでいて静かで品のあるふるまいをこちら側に見せつけていた。

 

 

「みなオシャレね」

   水を半分ほど飲んだところで、ポッと口からこぼれ出た。私は改めて「なんてのんきな人間なんだろう」と思った。背の高さをわずかに超える自動販売機の明かりは、私の顔から髪、ピンク色に染めたつま先まで明るく照らした。「これでもスタイルはいい方なのよ」と、このあいだおろしたばかりのハイヒールで自動販売機を蹴飛ばしたい衝動に駆られたけどその感情を押しとどめた。

 

私は、ハイヒールを履くとそこらへんの男とほとんど同じような目線になることができた。

 

ついさっき振りはらった客観的自己分析をくりかえした。「いやあ私ってのんきだ。」初夏の夜風は正直、すこし肌寒かった。どっかの店に駆け込んでゆっくり考えよう。そう思った。

 

 

「まいったなあ。」

   歩きながらため息と一緒に、本音がひとりごととなってつい口から漏れでた。誰も聴いていなかった。ひとりごとはだれも聴いていないから成り立つのだ。改めて実感した。

 

同じリズムを刻んでコツコツと踵が地面を鳴らした。コツコツ、コツコツ、コツコツ。そういえば今わたひは口紅は持っていないし、リップクリームも忘れた。誰かに借りるものじゃないし、いまこの時間じゃどこのお店もやってない。なんだかやるせない気分になった。

 

あえて問おう。誰かはひとりごとを聞いてくれるだろうか。いや、ひとりごとを聞いてくれる人なんて誰もいなかった。もとよりそんなことは期待もしていなかった。

 

   落としたか、盗まれたか、あるいはさっきの彼が持ち去ったか。いろいろな可能性をかんがえたけど、どうも思い当たる節はなかった。彼に至っては持ち去るメリットは1ミリも思い浮かばなかった。

 

   物をなくすなんて大概そうだろう。「自分はそんなつもりではなかった」など言わずもがな自明のことである。そもそも、物を失くそうとして失くすのは、それは既に失くしたことにならないし。「いいや、そんなことはどうだっていい。」またくだらない自己分析をくりかえすところだった。頭を振ると長くてまかれた髪も一緒に揺れた。

もしかしたら、私は初めからケータイなんて持っていなかったのかもしれない。そうだろうか?本当にそうだろうか?考えれば考えるほど、手元の冷えた水は体温で温まっていく。

 

 

「今の気分だったらすぐにでもバッサリ切ってやるのに」

またひとりごとがこぼれ出た。母親や小学校の先生、友だちが聞いていたら、もれなく一歩や二歩は引き下がるだろうか。「そういえば、だれも居ないんだった。」

   

 つい数分前には彼に向かって「連絡する」と言い(まあ、するつもりはなかったけど)、その矢先に「連絡手段が無くなりました」だなんて情けない笑い話である(PCあったって、番号とかメルアドなんて記憶してないもん)。

もっとも、笑えるのは自分しかいないのであり、一方その自分が一番に笑えないのであるけれどなんだかね。今追いかけたら彼に追いつくだろうか。すでに10分は経っている。もちろん彼の住処は知らなかった。覚えていなかった。

 

「まいった。」つい、またこぼれた。

 

 

 

 

つづく