「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

車と肉まんとへやの話

 戻ってくると横のスペースに新たな車が停まっていた。グレーのフォルクスワーゲンの小型車だ。車の鍵を手元の装置で開けた途端、くぐもったような音が重なった。その小型車には背の低くて髪の短い女性が入っていた。その時私には見えなかったが、彼女がドアを開けた音と重なったようだった。窓ガラス越しに驚く私をみて彼女も驚いていたように見えた。彼女は、イヤホンを付け直してそそくさと歩いてった。

車には興味がなかった。違法なのか合法なのか知らない改造方法や、こんな車種はいい、あれもこれもとやたらと車の話に張り切る友人にあまり理解が示せなかった。だが彼女が軽を持っていることもあり、免許を取得してから頻繁に運転させてもらえるようになって、運転中に他人の車を勝手に査定したりするようになった。あの見かけでこんな車に乗っているのかなどを考えた。ようやくいろんな車を見ているうちにどんな車だったら走りやすく、安全に走行できるのかを辛うじて想像できるまでにはなった。そのくらい車には興味がなかった。今すぐに車を買わないにしろ、今では車をきちんと調べ、それに大金をはたく行為にも理解が示せるし、また興味が湧いてきた。

一方で、車が売れない理由はいろんなところに存在するのかもしれないとふと考えてみた。一番は、高度に少子化や高齢化が進み、車を必要とする人口が絶対数的に減ってしまったことにあると作家で社会学者の古市憲寿さんは述べていて、私はそれにひどく頷かされた。論調の風を左右する大部分の大人たちは、単に若者の車離れと結論づける。これまでみたく若者の所為にばっかりしているようでは、これからもっと車は売れないと思った。もっとも、22年間のこれまで車にまったく興味のなかった私が言っても説得力や訴求力がないような気もするが。

 

部屋の近所で家が二軒建とうとしていた。日中、部屋にいる時今まで見れなかった番組や映画を見ていると、カンカン、コンコン、ガーガーと音が響いて聞こえてきた。私のマンションは住宅街の一画にあるので、その工事音が思わぬ方向から反響してくるのだ。音に関して別段問題なかったが、その建とうとする家の前の道路が砂利や砂地になっているので、道路がよく泥で茶色く汚れた。その一軒は立派につくられたお墓の真横に位置していて荒廃した田んぼを拓いたみたいだった。目の前の家の持ち場なのかもしれなかった。

 

狭い交差点で信号に捕まり道路を曲がりきれなかったので、後ろの車も遠かったから少しバックをした。その間に、前方の反対車線に車がズラーッと並んでしまったので、無理にでも行ってしまえばよかったと後悔した。やがて青になると、前方の先頭車両がワンテンポ遅らせるように停車したままでいて、どうやら先ほど渡れなかった私を見て曲がらせてあげるという風の心遣いが読み取れた。私の考え過ぎかもしれないが、そのちょっとした優しさに心が温まった。

私はその帰り道でローソンに寄り肉まんを買った。それを出して包むのを待ち、小銭を渡しながら肉まんをコンビニで買うのはいつぶりだろうと思い巡らせた。結局思い出せなかった。何せ、真夜中には肉まんは売っていないからだ。店員に袋はいらないと告げると、おしぼりをつけておきますと言い、肉まんの包みに重ねて渡してきた。おしぼりがほどよい温かみを持っていて、汚れを落とすのと同時によく手が温まった。先ほど温まった心を、次はおしぼりと肉まんで身体も温めた。

 

運転をしながら新たに建とうとする家を横目に新しく住む部屋を探さないとな、と思った。東京は思った以上に部屋が高く、それでいて穴場と言われるような格安物件が所々に存在した。その穴場を見つけるまでは漕ぎ着けない、あるいは実際に現場を見るのに至れないぞと思いつつ、ある程度の距離があるところに引越しするのはとても苦労することなんだと実感した。何しろ見に行くのでもお金がかかった。大学近辺において、どこにしよーあれもいいこれもいいーとかを気安く言ってらんないのだ。これなら転勤が嫌われる理由もわかった。私は若いうちは日本全国どこへでも飛び回って仕事をしたいと考えていたが、それもまた練り直さなければいけないと思った。