何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

読書と村上春樹と逃げること、下りること

     かに追われている時、それとは別のことに気を取られてしまい進めるべき作業が進まなくなることがある。たとえば試験勉強の様なおおよそ期限付きのタスクなど。タスクに追われてるが故に、普段は手をつけないような本を手に取り読書にふけってみたり、あるいは掃除をしたりしませんか。僕はあります。義務的にノートやテキストに集中するのではなくそれ以外の、つい周囲の状態に目が逸れてしまい、結局気がすむまで完遂させてしまいます。そしておわる頃には体力も気力も尽き、こなすべきタスクを後回しにすることになる。往往にして経験があることではないでしょうか。

 

僕の場合は読書でした。

今ではこうして注力する読書も元はといえば試験勉強という超現実から逃れるための避暑地、、、つまりは平生を保つためのオアシスだったのです。もっともそんな量に追われるほど勉強した訳でもないのですが何せ要領の悪い時分でしたから、いつも何かに追われていました。

 

そう、たまに本を眺める。

そんなことを繰り返して定期的に本を手に取るサイクルがこの身体に浸透しました。気付いた時には本にしっかりとお金を払っていました。その時から本の中身がまともに頭に入ってこないことも十分と了解した上で、勉強とは関係のない文字を自分の視線でなぞっていくのがささやかな楽しさでもありました。気づかぬうちのいつの間にか得た至福でした。

ただ、ながめているだけでよかったのです。

 

 

今はどうだろう。

講義や練習、テストに追われた日々は過ぎ去って、その代わりと言ってはなんだけどシュウカツやソツギョウロンブンなど、まるで今まで経験したことがなかった領域で闘って行くのは正直なところしんどいものでした。それでも僕には逃げるところがあった。黒いビジネスバッグにそんなに読まないだろうという本を詰め、東京や仙台の街を歩きました。その都度重くなって後悔しましたが、僕は何度も何度も本を黒のビジネスバッグに詰めて心を落ち着かせました。まるでお守りのような機能を期待するように。

 

世の中にはたくさんの本があって、どれだけ努力し時間を注いでも全ての本を読むことはできません。読書という行為においてそれに真剣に立ち向かう時、完全完璧なコンプリートを大目的とした作業の中では、圧倒的に不可能なゴールを目指すことになります。それはつまり誰でも参加可能な形でその資源を手にし余暇活動を全うとするという点においては、決して果たされない満たされることのない行為ということです。

ですが、誰もそんなことを大目的にして読書するという人なんえそもそもいないでしょうし、まったく無価値な問いでしたね。

 

僕は大学生活の半ばあたりから村上春樹に傾倒した風があって、今でも彼の本を手当たり次第に読んでいます。

はたして何に駆られて幾度も彼の本を手にしているのかも自分のことながらまったく理解できずにいましたが『ねじまき鳥クロニクル 第2巻』を読み終えた今、少しだけ自分なりに意味を見出せた気がしたので、ここに書き残しておこうと思います。

 

          ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)        ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

 

それはノスタルジーへの憧憬「古さ」に対する知的好奇心の補完とでも言えるでしょうか

1994年に生まれた僕は、家族との関わりによって、まだかろうじて残るその「古い」匂いを記憶している気がするのですが、異論はありますかね?「1994年生まれ 」さん。少しそれについて書こうと思います。

 

今のところ僕が読んだのは  (リタイアした海辺のカフカを除いて) ほとんどが僕の生まれる1994年以前の時代が設定されています。そしてまだ僕が暮らしたことのない東京が舞台です。そこにはほとんど想像がつかない形で (時代設定の曖昧さを除いて) かろうじて想像のできる範囲で物語が進行します。時代設定に関しては、はるか遠くに習った日本史や世界史の範囲でカバーできますが、現代社会における史的な分野のおおよそがテレビや雑誌、本などから補給した情報の断片ばかりです。

 

氏の物語では携帯電話やメール、当たり前ですが発達したインターネットの回線や社会は登場しません。ソーシャルなネットワーキング・サービスも出てきません。そしてその代わりに  (と言ったらおかしいですが)  どこかに佇む公衆電話や、茶封筒に収まる長い手紙がたびたび出てきます。このような代物があった世界の様子を実際に僕らは知っていますし想像することもできます。けれども、今はほとんど表に出てこないような、あたかもその存在自体が無かったもののようにされているくらいにひっそりとしています。その対極でインターネット社会はそれは急速に急速に急速に、加速度的に進行している。何もかも先人の知恵を置き去りにしていくような勢いで。

 

 

さきの例だけではとてもじゃないけど前提として不足していますが、大まかにいえるそんな「古さ」を纏った雰囲気のノスタルジーへの憧憬は、僕が少年期の頃から少しずつ兆候の姿を見せていました。そして、この氏の著書を手に取って読み耽り、あるいはそこをスタート地点とし物事を考えるようになってから、さきの憧憬や知的好奇心の補完という感情的な情動が、抑えがたい歯止めの効かないものになってしまいました。なぜだろうと思います。なぜこんなにも熱中するんだろう、と。

 

おおよそでしか話せないのですが僕なりに考えたことがあります。

この時世、情報社会やその文明の利器肖り、どっぷりと浸かっています。興味津々にそれを楽しむ一方で(と同時に、という感覚) それらにひどく疲弊しているからではないかということです。これはただの推察であって決定的な根拠は見つからないのですが、この頃そう思って仕方ありません。

 

また日常生活では情報機器に頼りきりでその効果や機能は大いに認めたいのですが、既に情けないくらいにドロップアウトしたい欲望があります。(本当は、何もかも捨てたいのだ。でもここではそれに言及しておかない。)

 

しかし、この読書の場において、もっとも氏の著作を読むことによって得られる知見及び世界の様子は、そういった情報にまみれたこの社会から一旦下りることができる機会を与えてくれます

そしてページを見開いている時においてのみ、その場から逃れ、時間を巻き戻しまだ見ぬ人々、もう見ることはないであろう風景を、追体験というフレームで観察することができます

 

さきの推察から僕は自身の容姿や性格そして生活ぶりは変貌を遂げましたが、良くも悪くも、僕は何かに追われてることから逃れることによってのみ、一段ステップアップして考える機会が与えられるという、本質的な動機とその流れは変わらないのだなと思いました。

良くも悪くも。

 

氏の文章構成は好きですがうまく言葉に表すことができません。それはうまく表そうとするからだ、と指摘できると思うし、その一方でまだそんな時期ではないだろうという時期尚早的な"あきらめ観"で一時保管することができます。

かつて誰かの書評には、彼の物語では主人公が悪から逃れる、あるいは悪に立ち向かいそれと闘うのを描いているのだと書いてきたけれど、今のところこれが僕にとって一番しっくりくる簡潔なまとめです。

 

 

読んでくださってありがとうございます。お疲れ様でした