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就活について② 

masa1751.hatenablog.com

 

 「就活」の時期を思い浮かべると、苦い気分になるのは私だけではないと思う。

その成果はどうであれ、生々しくて、いろいろな原体験が詰まった期間であったことは間違いない。「圧倒的成長」と「社会化」。その過去を変えることはできない。でも、私がほかの人と違う感覚を持っていると感じるのは、あの期間には、一瞬にでも「楽しさ」や「学びたい」「知りたい」といった、私が生きていく上で必要な「根源的な感情」を何度も覚えて、そのうちに、底にヌペーッと垂れていたことに気付いた。何か掘り当てて、それを掘り起こしたのかもしれない。ずっと。ヌルヌルしてるけど、そのヌルヌルの理由を知らないとここからは立ち去れないみたいな感覚が、ずっと付きまとっていた。そのヌメリに足を滑らせたこともあった。大手の広告代理店でバリバリ働いている(と思われる)女性が何で容姿端麗なのかとか、某・公共放送の職員は何故あんなにもラフなのかとか、そんなことばっかり気になった。「ソノシステムハドウヤッテコウチクサレテルノ」と。そして実際に、それは確かめられた。私は、私たちは実際に確かめる権利を持っている。見えないだけで、いいや、見ようとしないだけで。

 

うん。さっき沸かしたコーヒーは、まだぬくもりを保っている。

 

その時期は「わからない」ことを放置することで、一番危険な状態に置かれる。知ろうと思えば知ることができる環境が目の前に迫っていてもなお、それを儀礼的(市民的)に見過ごすのが私たちの本性というか、これほどまでにもったいないというか、すでにその時点で自分の首を切ってしまっているような状態でフォーマル・スーツに革靴で都内を練り歩くなんてもうこの先やってこないぞ、と。だから話を聞け、そして質問しろ、その場にいるほかの市井は自分に何にも利益をもたらさないぞ、と言い聞かせ続けた。情報戦のなかで一番の敵は、その情報そのもの。二次的な情報は、大体いい利益をもたらすけど、大体悪い側面も見せるよと。苦しいんだこれが。

 

砂糖のザラザラと塩のサラサラは異なるもの。スリッパが床にこぼした塩を回収していて、私は足を滑らせ危うく頭を床に打ち付けるところだった。何かがとどまらせた。

 

 

 

一言にまとめて包括してしまえば、それはただ苦しい体験に変わらないのだけど、あの日々を思い出すと、胸が高鳴るというか、それは時に嫌らしく、冷や汗が流れるのを伴うけど、すがすがしい気分になることもある。要するに、(今なにも言えていないのだけど)全部とらえ方なのだ。これを「運」とか「相性」といった言葉で、ほかにも伝えるべきだった大事な要素をスッパリと切り捨て、捨象する人がいる。その考え方は、私のからだにも、よーーーーーーーーーーーーーーーーーく染み込んだ。素晴らしい。

 

 

すでに日は傾いて、落ちて、部屋は暗く静まった。ファンクやらソウルの音色だけが静かに響き渡る。私は部屋の電気をつけなければいけない。そして、台所の換気扇をスイッチを押して止めなければいけない

 

 

 

「運」や「相性」という言葉は、「だから、仕方ないよね」と、その場を切り捨てるためのいい踏み台になる。「運」や「相性」は優秀な思想だ。でも、その踏み台は、以前の自分をいったんリセットさせ、より高みを見渡せるだけの代物になるのと同時に、つま先か踵でガンッと蹴飛ばしてしまえば、いいや、無意識的に誤って踏み外してしまうと、そこで死んでしまうんだ。うん。そこで、死ぬこともできる。どうぶつの森のようなリセットさんは、この世では通用しないんだよね。リセットさんがいてくれたらな、、、、とは何度か思った。

 

 

 

 

 

 

 

このトピックを扱うとき、前半部分は、なるべく不明確・不明瞭に書きたいと思っています。率直に、つれづれと、一見して意味をなさないような形をとったとしても。です